躇《ちゅうちょ》していたが、兄からまた二声ほど続けざまに大きな声を掛けられたので、やむを得ず低い返事をして、襖《ふすま》から顔を出した。その顔は酒気《しゅき》のまだ醒《さ》めない赤い色を眼の縁《ふち》に帯びていた。部屋の中を覗《のぞ》き込んで、始めて吃驚《びっくり》した様子で、
「どうかなすったんですか」と酔《よい》が一時に去ったような表情をした。
宗助は清に命じた通りを、小六に繰り返して、早くしてくれと急《せ》き立てた。小六は外套《マント》も脱《ぬ》がずに、すぐ玄関へ取って返した。
「兄さん、医者まで行くのは急いでも時間が掛かりますから、坂井さんの電話を借りて、すぐ来るように頼みましょう」
「ああ。そうしてくれ」と宗助は答えた。そうして小六の帰る間、清に何返《なんべん》となく金盥の水を易《か》えさしては、一生懸命に御米の肩を圧《お》しつけたり、揉《も》んだりしてみた。御米の苦しむのを、何もせずにただ見ているに堪《た》えなかったから、こうして自分の気を紛《まぎ》らしていたのである。
この時の宗助に取って、医者の来るのを今か今かと待ち受ける心ほど苛《つら》いものはなかった。彼は御米の肩を揉みながらも、絶えず表の物音に気を配った。
ようやく医者が来たときは、始めて夜が明けたような心持がした。医者は商売柄だけあって、少しも狼狽《うろた》えた様子を見せなかった。小さい折鞄《おりかばん》を脇に引き付けて、落ちつき払った態度で、慢性病の患者でも取り扱うように緩《ゆっ》くりした診察をした。その逼《せま》らない顔色を傍《はた》で見ていたせいか、わくわくした宗助の胸もようやく治《おさ》まった。
医者は芥子《からし》を局部へ貼《は》る事と、足を湿布《しっぷ》で温める事と、それから頭を氷で冷す事とを、応急手段として宗助に注意した。そうして自分で芥子を掻《か》いて、御米の肩から頸《くび》の根へ貼りつけてくれた。湿布は清と小六とで受持った。宗助は手拭《てぬぐい》の上から氷嚢《こおりぶくろ》を額の上に当てがった。
とかくするうち約一時間も経った。医者はしばらく経過を見て行こうと云って、それまで御米の枕元に坐《すわ》っていた。世間話も折々は交《まじ》えたが、おおかたは無言のまま二人共に御米の容体を見守る事が多かった。夜《よ》は例のごとく静《しずか》に更《ふ》けた。
「だいぶ冷えますな」と医者が云った。宗助は気の毒になったので、あとの注意をよく聞いた上、遠慮なく引き取ってくれるようにと頼んだ。その時御米は先刻《さっき》よりはだいぶ軽快になっていたからである。
「もう大丈夫でしょう。頓服《とんぷく》を一回上げますから今夜飲んで御覧なさい。多分寝られるだろうと思います」と云って医者は帰った。小六はすぐその後《あと》を追って出て行った。
小六が薬取に行った間に、御米は
「もう何時」と云いながら、枕元の宗助を見上げた。宵《よい》とは違って頬から血が退《ひ》いて、洋灯《ランプ》に照らされた所が、ことに蒼白《あおじろ》く映った。宗助は黒い毛の乱れたせいだろうと思って、わざわざ鬢《びん》の毛を掻き上げてやった。そうして、
「少しはいいだろう」と聞いた。
「ええよっぽど楽になったわ」と御米はいつもの通り微笑を洩《も》らした。御米は大抵苦しい場合でも、宗助に微笑を見せる事を忘れなかった。茶の間では、清が突伏したまま鼾《いびき》をかいていた。
「清を寝かしてやって下さい」と御米が宗助に頼んだ。
小六が薬取りから帰って来て、医者の云いつけ通り服薬を済ましたのは、もうかれこれ十二時近くであった。それから二十分と経たないうちに、病人はすやすや寝入った。
「好い塩梅《あんばい》だ」と宗助が御米の顔を見ながら云った。小六もしばらく嫂《あによめ》の様子を見守っていたが、
「もう大丈夫でしょう」と答えた。二人は氷嚢を額からおろした。
やがて小六は自分の部屋へ這入《はい》る。宗助は御米の傍《そば》へ床を延べていつものごとく寝た。五六時間の後《のち》冬の夜は錐《きり》のような霜《しも》を挟《さしは》さんで、からりと明け渡った。それから一時間すると、大地を染める太陽が、遮《さえ》ぎるもののない蒼空《あおぞら》に憚《はばか》りなく上《のぼ》った。御米はまだすやすや寝ていた。
そのうち朝餉《あさげ》も済んで、出勤の時刻がようやく近づいた。けれども御米は眠りから覚《さ》める気色《けしき》もなかった。宗助は枕辺《まくらべ》に曲《こご》んで、深い寝息を聞きながら、役所へ行こうか休もうかと考えた。
十二
朝の内は役所で常のごとく事務を執《と》っていたが、折々|昨夕《ゆうべ》の光景が眼に浮ぶに連れて、自然|御米《およね》の病気が気に罹《かか》るので、仕事は思うように運ばな
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