御米はだいぶいいようだったので、床を上げて貰って、火鉢に倚《よ》ったなり、宗助の帰りを待ち受けた。
宗助は例刻に帰って来た。神田の通りで、門並《かどなみ》旗を立てて、もう暮の売出しを始めた事だの、勧工場《かんこうば》で紅白の幕を張って楽隊に景気をつけさしている事だのを話した末、
「賑《にぎ》やかだよ。ちょっと行って御覧。なに電車に乗って行けば訳はない」と勧めた。そうして自分は寒さに腐蝕《ふしょく》されたように赤い顔をしていた。
御米はこう宗助から労《いた》わられた時、何だか自分の身体の悪い事を訴たえるに忍びない心持がした。実際またそれほど苦しくもなかった。それでいつもの通り何気《なにげ》ない顔をして、夫に着物を着換えさしたり、洋服を畳んだりして夜《よ》に入《い》った。
ところが九時近くになって、突然宗助に向って、少し加減が悪いから先へ寝たいと云い出した。今まで平生の通り機嫌よく話していただけに、宗助はこの言葉を聞いてちょっと驚ろいたが、大した事でもないと云う御米の保証に、ようやく安心してすぐ休む支度をさせた。
御米が床《とこ》へ這入《はい》ってから、約二十分ばかりの間、宗助は耳の傍《はた》に鉄瓶《てつびん》の音を聞きながら、静な夜を丸心《まるじん》の洋灯《ランプ》に照らしていた。彼は来年度に一般官吏に増俸の沙汰《さた》があるという評判を思い浮べた。またその前に改革か淘汰《とうた》が行われるに違ないという噂に思い及んだ。そうして自分はどっちの方へ編入されるのだろうと疑った。彼は自分を東京へ呼んでくれた杉原が、今もなお課長として本省にいないのを遺憾《いかん》とした。彼は東京へ移ってから不思議とまだ病気をした事がなかった。したがってまだ欠勤届を出した事がなかった。学校を中途でやめたなり、本はほとんど読まないのだから、学問は人並にできないが、役所でやる仕事に差支《さしつか》えるほどの頭脳ではなかった。
彼はいろいろな事情を綜合《そうごう》して考えた上、まあ大丈夫だろうと腹の中できめた。そうして爪の先で軽く鉄瓶の縁《ふち》を敲《たた》いた。その時座敷で、
「あなたちょっと」と云う御米の苦しそうな声が聞えたので、我知らず立ち上がった。
座敷へ来て見ると、御米は眉《まゆ》を寄せて、右の手で自分の肩を抑《おさ》えながら、胸まで蒲団《ふとん》の外へ乗り出していた。宗助はほとんど器械的に、同じ所へ手を出した。そうして御米の抑えている上から、固く骨の角《かど》を攫《つか》んだ。
「もう少し後《うしろ》の方」と御米が訴えるように云った。宗助の手が御米の思う所へ落ちつくまでには、二度も三度もそこここと位置を易《か》えなければならなかった。指で圧《お》してみると、頸《くび》と肩の継目の少し背中へ寄った局部が、石のように凝《こ》っていた。御米は男の力いっぱいにそれを抑えてくれと頼んだ。宗助の額からは汗が煮染《にじ》み出した。それでも御米の満足するほどは力が出なかった。
宗助は昔の言葉で早打肩《はやうちかた》というのを覚えていた。小さい時|祖父《じじい》から聞いた話に、ある侍《さむらい》が馬に乗ってどこかへ行く途中で、急にこの早打肩《はやうちかた》に冒《おか》されたので、すぐ馬から飛んで下りて、たちまち小柄《こづか》を抜くや否《いな》や、肩先を切って血を出したため、危うい命を取り留めたというのがあったが、その話が今明らかに記憶の焼点《しょうてん》に浮んで出た。その時宗助はこれはならんと思った。けれどもはたして刃物を用いて、肩の肉を突いていいものやら、悪いものやら、決しかねた。
御米はいつになく逆上《のぼ》せて、耳まで赤くしていた。頭が熱いかと聞くと苦しそうに熱いと答えた。宗助は大きな声を出して清に氷嚢《こおりぶくろ》へ冷たい水を入れて来いと命じた。氷嚢があいにく無かったので、清は朝の通り金盥《かなだらい》に手拭《てぬぐい》を浸《つ》けて持って来た。清が頭を冷やしているうち、宗助はやはり精いっぱい肩を抑えていた。時々少しはいいかと聞いても、御米は微《かす》かに苦しいと答えるだけであった。宗助は全く心細くなった。思い切って、自分で馳《か》け出して医者を迎《むかい》に行こうとしたが、後《あと》が心配で一足も表へ出る気にはなれなかった。
「清、御前急いで通りへ行って、氷嚢を買って医者を呼んで来い。まだ早いから起きてるだろう」
清はすぐ立って茶の間の時計を見て、
「九時十五分でございます」と云いながら、それなり勝手口へ回って、ごそごそ下駄を探《さが》しているところへ、旨《うま》い具合に外から小六が帰って来た。例の通り兄には挨拶《あいさつ》もしないで、自分の部屋へ這入《はい》ろうとするのを、宗助はおい小六と烈《はげ》しく呼び止めた。小六は茶の間で少し躊
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