るのが厭《いや》になって行き過ぎた。呉服店でもだいぶ立見をした。鶉御召《うずらおめし》だの、高貴織《こうきおり》だの、清凌織《せいりょうおり》だの、自分の今日《こんにち》まで知らずに過ぎた名をたくさん覚えた。京都の襟新《えりしん》と云う家《うち》の出店の前で、窓硝子《まどガラス》へ帽子の鍔《つば》を突きつけるように近く寄せて、精巧に刺繍《ぬい》をした女の半襟《はんえり》を、いつまでも眺《なが》めていた。その中《うち》にちょうど細君に似合いそうな上品なのがあった。買って行ってやろうかという気がちょっと起るや否《いな》や、そりゃ五六年|前《ぜん》の事だと云う考が後《あと》から出て来て、せっかく心持の好い思いつきをすぐ揉《も》み消してしまった。宗助は苦笑しながら窓硝子を離れてまた歩き出したが、それから半町ほどの間は何だかつまらないような気分がして、往来にも店先にも格段の注意を払わなかった。
ふと気がついて見ると角に大きな雑誌屋があって、その軒先には新刊の書物が大きな字で広告してある。梯子《はしご》のような細長い枠《わく》へ紙を張ったり、ペンキ塗の一枚板へ模様画みたような色彩を施こしたりしてある。宗助はそれを一々読んだ。著者の名前も作物《さくぶつ》の名前も、一度は新聞の広告で見たようでもあり、また全く新奇のようでもあった。
この店の曲り角の影になった所で、黒い山高帽を被《かぶ》った三十ぐらいの男が地面の上へ気楽そうに胡坐《あぐら》をかいて、ええ御子供衆の御慰《おなぐさ》みと云いながら、大きな護謨風船《ゴムふうせん》を膨《ふく》らましている。それが膨れると自然と達磨《だるま》の恰好《かっこう》になって、好加減《いいかげん》な所に眼口まで墨で書いてあるのに宗助は感心した。その上一度息を入れると、いつまでも膨れている。かつ指の先へでも、手の平の上へでも自由に尻が据《すわ》る。それが尻の穴へ楊枝《ようじ》のような細いものを突っ込むとしゅうっと一度に収縮してしまう。
忙がしい往来の人は何人でも通るが、誰も立ちどまって見るほどのものはない。山高帽の男は賑《にぎ》やかな町の隅に、冷やかに胡坐《あぐら》をかいて、身の周囲《まわり》に何事が起りつつあるかを感ぜざるもののごとくに、ええ御子供衆の御慰みと云っては、達磨を膨らましている。宗助は一銭五厘出して、その風船を一つ買って、しゅっと縮ましてもらって、それを袂《たもと》へ入れた。奇麗《きれい》な床屋へ行って、髪を刈りたくなったが、どこにそんな奇麗なのがあるか、ちょっと見つからないうちに、日が限《かぎ》って来たので、また電車へ乗って、宅《うち》の方へ向った。
宗助が電車の終点まで来て、運転手に切符を渡した時には、もう空の色が光を失いかけて、湿った往来に、暗い影が射《さ》し募《つの》る頃であった。降りようとして、鉄の柱を握ったら、急に寒い心持がした。いっしょに降りた人は、皆《みん》な離れ離れになって、事あり気に忙がしく歩いて行く。町のはずれを見ると、左右の家の軒から家根《やね》へかけて、仄白《ほのしろ》い煙りが大気の中に動いているように見える。宗助も樹《き》の多い方角に向いて早足に歩を移した。今日の日曜も、暢《のん》びりした御天気も、もうすでにおしまいだと思うと、少しはかないようなまた淋《さみ》しいような一種の気分が起って来た。そうして明日《あした》からまた例によって例のごとく、せっせと働らかなくてはならない身体《からだ》だと考えると、今日半日の生活が急に惜しくなって、残る六日半《むいかはん》の非精神的な行動が、いかにもつまらなく感ぜられた。歩いているうちにも、日当の悪い、窓の乏しい、大きな部屋の模様や、隣りに坐《すわ》っている同僚の顔や、野中さんちょっとと云う上官の様子ばかりが眼に浮かんだ。
魚勝と云う肴屋《さかなや》の前を通り越して、その五六軒先の露次《ろじ》とも横丁ともつかない所を曲ると、行き当りが高い崖《がけ》で、その左右に四五軒同じ構《かまえ》の貸家が並んでいる。ついこの間までは疎《まば》らな杉垣の奥に、御家人《ごけにん》でも住み古したと思われる、物寂《ものさび》た家も一つ地所のうちに混《まじ》っていたが、崖の上の坂井《さかい》という人がここを買ってから、たちまち萱葺《かやぶき》を壊して、杉垣を引き抜いて、今のような新らしい普請《ふしん》に建て易《か》えてしまった。宗助の家《うち》は横丁を突き当って、一番奥の左側で、すぐの崖下だから、多少陰気ではあるが、その代り通りからはもっとも隔っているだけに、まあ幾分か閑静だろうと云うので、細君と相談の上、とくにそこを択《えら》んだのである。
宗助は七日《なのか》に一返の日曜ももう暮れかかったので、早く湯にでも入《い》って、暇があったら髪でも刈って
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