けれども彼の淋しみは、彼を思い切った極端に駆《か》り去るほどに、強烈の程度なものでないから、彼がそこまで猛進する前に、それも馬鹿馬鹿しくなってやめてしまう。のみならず、こんな人の常態として、紙入の底が大抵の場合には、軽挙を戒《いまし》める程度内に膨《ふく》らんでいるので、億劫《おっくう》な工夫を凝《こ》らすよりも、懐手《ふところで》をして、ぶらりと家《うち》へ帰る方が、つい楽になる。だから宗助の淋《さび》しみは単なる散歩か勧工場《かんこうば》縦覧ぐらいなところで、次の日曜まではどうかこうか慰藉《いしゃ》されるのである。
 この日も宗助はともかくもと思って電車へ乗った。ところが日曜の好天気にもかかわらず、平常よりは乗客が少ないので例になく乗心地が好かった。その上乗客がみんな平和な顔をして、どれもこれも悠《ゆっ》たりと落ちついているように見えた。宗助は腰を掛けながら、毎朝例刻に先を争って席を奪い合いながら、丸の内方面へ向う自分の運命を顧《かえり》みた。出勤刻限の電車の道伴《みちづれ》ほど殺風景なものはない。革《かわ》にぶら下がるにしても、天鵞絨《びろうど》に腰を掛けるにしても、人間的な優《やさ》しい心持の起った試《ためし》はいまだかつてない。自分もそれでたくさんだと考えて、器械か何ぞと膝《ひざ》を突き合せ肩を並べたかのごとくに、行きたい所まで同席して不意と下りてしまうだけであった。前の御婆さんが八つぐらいになる孫娘の耳の所へ口を付けて何か云っているのを、傍《そば》に見ていた三十|恰好《がっこう》の商家の御神《おかみ》さんらしいのが、可愛らしがって、年を聞いたり名を尋ねたりするところを眺《なが》めていると、今更《いまさら》ながら別の世界に来たような心持がした。
 頭の上には広告が一面に枠《わく》に嵌《は》めて掛けてあった。宗助は平生これにさえ気がつかなかった。何心なしに一番目のを読んで見ると、引越は容易にできますと云う移転会社の引札《ひきふだ》であった。その次には経済を心得る人は、衛生に注意する人は、火の用心を好むものは、と三行に並べておいてその後《あと》に瓦斯竈《ガスがま》を使えと書いて、瓦斯竈から火の出ている画《え》まで添えてあった。三番目には露国文豪トルストイ伯傑作「千古の雪」と云うのと、バンカラ喜劇|小辰《こたつ》大一座と云うのが、赤地に白で染め抜いてあった。
 宗助は約十分もかかって、すべての広告を丁寧《ていねい》に三返ほど読み直した。別に行って見ようと思うものも、買って見たいと思うものも無かったが、ただこれらの広告が判然《はっきり》と自分の頭に映って、そうしてそれを一々読み終《おお》せた時間のあった事と、それをことごとく理解し得たと云う心の余裕《よゆう》が、宗助には少なからぬ満足を与えた。彼の生活はこれほどの余裕にすら誇りを感ずるほどに、日曜以外の出入《ではい》りには、落ちついていられないものであった。
 宗助は駿河台下《するがだいした》で電車を降りた。降りるとすぐ右側の窓硝子《まどガラス》の中に美しく並べてある洋書に眼がついた。宗助はしばらくその前に立って、赤や青や縞《しま》や模様の上に、鮮《あざや》かに叩《たた》き込んである金文字を眺めた。表題の意味は無論解るが、手に取って、中を検《しら》べて見ようという好奇心はちっとも起らなかった。本屋の前を通ると、きっと中へ這入《はい》って見たくなったり、中へ這入ると必ず何か欲しくなったりするのは、宗助から云うと、すでに一昔《ひとむか》し前の生活である。ただ History《ヒストリ》 of《オフ》 Gambling《ガムブリング》(博奕史《ばくえきし》)と云うのが、ことさらに美装して、一番真中に飾られてあったので、それが幾分か彼の頭に突飛《とっぴ》な新し味を加えただけであった。
 宗助は微笑しながら、急忙《せわ》しい通りを向側《むこうがわ》へ渡って、今度は時計屋の店を覗《のぞ》き込んだ。金時計だの金鎖が幾つも並べてあるが、これもただ美しい色や恰好《かっこう》として、彼の眸《ひとみ》に映るだけで、買いたい了簡《りょうけん》を誘致するには至らなかった。その癖彼は一々絹糸で釣るした価格札《ねだんふだ》を読んで、品物と見較《みくら》べて見た。そうして実際金時計の安価なのに驚ろいた。
 蝙蝠傘屋《こうもりがさや》の前にもちょっと立ちどまった。西洋|小間物《こまもの》を売る店先では、礼帽《シルクハット》の傍《わき》にかけてあった襟飾《えりかざ》りに眼がついた。自分の毎日かけているのよりも大変|柄《がら》が好かったので、価《ね》を聞いてみようかと思って、半分店の中へ這入《はい》りかけたが、明日《あした》から襟飾りなどをかけ替えたところが下らない事だと思い直すと、急に蟇口《がまぐち》の口を開け
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