かく刈り込んだのを生やして、ただ頬《ほお》から腮《あご》を奇麗《きれい》に蒼《あお》くしていた。
「いやどうもとんだ御手数《ごてかず》で」と主人は眼尻《めじり》に皺《しわ》を寄せながら礼を述べた。米沢《よねざわ》の絣《かすり》を着た膝《ひざ》を板の間に突いて、宗助からいろいろ様子を聞いている態度が、いかにも緩《ゆっ》くりしていた。宗助は昨夕《ゆうべ》から今朝へかけての出来事を一通り掻《か》い撮《つま》んで話した上、文庫のほかに何か取られたものがあるかないかを尋ねて見た。主人は机の上に置いた金時計を一つ取られた由《よし》を答えた。けれどもまるで他《ひと》のものでも失《な》くなした時のように、いっこう困ったと云う気色《けしき》はなかった。時計よりはむしろ宗助の叙述の方に多くの興味を有《も》って、泥棒が果して崖を伝って裏から逃げるつもりだったろうか、または逃げる拍子《ひょうし》に、崖から落ちたものだろうかと云うような質問を掛けた。宗助は固《もと》より返答ができなかった。
 そこへ最前の仲働が、奥から茶や莨《たばこ》を運んで来たので、宗助はまた帰りはぐれた。主人はわざわざ座蒲団《ざぶとん》まで取り寄せて、とうとうその上へ宗助の尻を据《す》えさした。そうして今朝《けさ》早く来た刑事の話をし始めた。刑事の判定によると、賊は宵《よい》から邸内に忍び込んで、何でも物置かなぞに隠れていたに違ない。這入口《はいりくち》はやはり勝手である。燐寸《マッチ》を擦《す》って蝋燭《ろうそく》を点《とも》して、それを台所にあった小桶《こおけ》の中へ立てて、茶の間へ出たが、次の部屋には細君と子供が寝ているので、廊下伝いに主人の書斎へ来て、そこで仕事をしていると、この間生れた末の男の子が、乳を呑《の》む時刻が来たものか、眼を覚《さ》まして泣き出したため、賊は書斎の戸を開けて庭へ逃げたらしい。
「平常《いつも》のように犬がいると好かったんですがね。あいにく病気なので、四五日前病院へ入れてしまったもんですから」と主人は残念がった。宗助も、
「それは惜しい事でした」と答えた。すると主人はその犬の種《ブリード》やら血統やら、時々|猟《かり》に連れて行く事や、いろいろな事を話し始めた。
「猟《りょう》は好ですから。もっとも近来は神経痛で少し休んでいますが。何しろ秋口から冬へ掛けて鴫《しぎ》なぞを打ちに行くと、どうしても腰から下は田の中へ浸《つか》って、二時間も三時間も暮らさなければならないんですから、全く身体《からだ》には好くないようです」
 主人は時間に制限のない人と見えて、宗助が、なるほどとか、そうですか、とか云っていると、いつまでも話しているので、宗助はやむを得ず中途で立ち上がった。
「これからまた例の通り出かけなければなりませんから」と切り上げると、主人は始めて気がついたように、忙がしいところを引き留めた失礼を謝した。そうしていずれまた刑事が現状を見に行くかも知れないから、その時はよろしく願うと云うような事を述べた。最後に、
「どうかちと御話に。私も近頃はむしろ閑《ひま》な方ですから、また御邪魔に出ますから」と丁寧《ていねい》に挨拶をした。門を出て急ぎ足に宅《うち》へ帰ると、毎朝出る時刻よりも、もう三十分ほど後れていた。
「あなたどうなすったの」と御米が気を揉《も》んで玄関へ出た。宗助はすぐ着物を脱いで洋服に着換えながら、
「あの坂井と云う人はよっぽど気楽な人だね。金があるとああ緩《ゆっ》くりできるもんかな」と云った。

        八

「小六《ころく》さん、茶の間から始めて。それとも座敷の方を先にして」と御米《およね》が聞いた。
 小六は四五日前とうとう兄の所へ引き移った結果として、今日の障子《しょうじ》の張替《はりかえ》を手伝わなければならない事となった。彼は昔《むか》し叔父の家にいた時、安之助《やすのすけ》といっしょになって、自分の部屋の唐紙《からかみ》を張り替えた経験がある。その時は糊《のり》を盆に溶《と》いたり、箆《へら》を使って見たり、だいぶ本式にやり出したが、首尾好く乾かして、いざ元の所へ建てるという段になると、二枚とも反《そ》っ繰《く》り返って敷居の溝《みぞ》へ嵌《は》まらなかった。それからこれも安之助と共同して失敗した仕事であるが、叔母の云いつけで、障子を張らせられたときには、水道でざぶざぶ枠《わく》を洗ったため、やっぱり乾いた後で、惣体《そうたい》に歪《ゆがみ》ができて非常に困難した。
「姉さん、障子を張るときは、よほど慎重にしないと失策《しくじ》るです。洗っちゃ駄目ですぜ」と云いながら、小六は茶の間の縁側《えんがわ》からびりびり破き始めた。
 縁先は右の方に小六のいる六畳が折れ曲って、左には玄関が突き出している。その向うを塀《へい》が縁
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