うやく家《うち》へ入った。茶の間へ来て例の通り火鉢《ひばち》の前へ坐《すわ》ったが、すぐ大きな声を出して御米を呼んだ。御米は、
「起き抜けにどこへ行っていらしったの」と云いながら奥から出て来た。
「おい昨夜《ゆうべ》枕元で大きな音がしたのは、やっぱり夢じゃなかったんだ。泥棒だよ。泥棒が坂井さんの崖《がけ》の上から宅《うち》の庭へ飛び下りた音だ。今裏へ回って見たら、この文庫が落ちていて、中にはいっていた手紙なんぞが、むちゃくちゃに放り出してあった。おまけに御馳走《ごちそう》まで置いて行った」
 宗助は文庫の中から、二三通の手紙を出して御米に見せた。それには皆《みんな》坂井の名宛《なあて》が書いてあった。御米は吃驚《びっくり》して立膝のまま、
「坂井さんじゃほかに何か取られたでしょうか」と聞いた。宗助は腕組をして、
「ことに因《よ》ると、まだ何かやられたね」と答えた。
 夫婦はともかくもと云うので、文庫をそこへ置いたなり朝飯の膳《ぜん》に着いた。しかし箸《はし》を動かす間《ま》も泥棒の話は忘れなかった。御米は自分の耳と頭のたしかな事を夫に誇った。宗助は耳と頭のたしかでない事を幸福とした。
「そうおっしゃるけれど、これが坂井さんでなくって、宅で御覧なさい。あなたみたように、ぐうぐう寝ていらしったら困るじゃないの」と御米が宗助をやり込めた。
「なに、宅なんぞへ這入《はい》る気遣《きづかい》はないから大丈夫だ」と宗助も口の減らない返事をした。
 そこへ清が突然台所から顔を出して、
「この間|拵《こしら》えた旦那様の外套《マント》でも取られようものなら、それこそ騒ぎでございましたね。御宅《おうち》でなくって坂井さんだったから、本当に結構でございます」と真面目《まじめ》に悦《よろこび》の言葉を述べたので、宗助も御米も少し挨拶《あいさつ》に窮《きゅう》した。
 食事を済ましても、出勤の時刻にはまだだいぶ間があった。坂井では定めて騒いでるだろうと云うので、文庫は宗助が自分で持って行ってやる事にした。蒔絵《まきえ》ではあるが、ただ黒地に亀甲形《きっこうがた》を金《きん》で置いただけの事で、別に大して金目の物とも思えなかった。御米は唐桟《とうざん》の風呂敷《ふろしき》を出してそれを包《くる》んだ。風呂敷が少し小さいので、四隅《よすみ》を対《むこ》う同志|繋《つな》いで、真中にこま結びを二つ拵《こしら》えた。宗助がそれを提《さ》げたところは、まるで進物の菓子折のようであった。
 座敷で見ればすぐ崖の上だが、表から廻ると、通りを半町ばかり来て、坂を上《のぼ》って、また半町ほど逆に戻らなければ、坂井の門前へは出られなかった。宗助は石の上へ芝を盛って扇骨木《かなめ》を奇麗《きれい》に植えつけた垣に沿うて門内に入った。
 家《いえ》の内はむしろ静か過ぎるくらいしんとしていた。摺硝子《すりガラス》の戸が閉《た》ててある玄関へ来て、ベルを二三度押して見たが、ベルが利《き》かないと見えて誰も出て来なかった。宗助は仕方なしに勝手口へ廻った。そこにも摺硝子の嵌《は》まった腰障子《こししょうじ》が二枚閉ててあった。中では器物を取り扱う音がした。宗助は戸を開けて、瓦斯七輪《ガスしちりん》を置いた板の間に蹲踞《しゃが》んでいる下女に挨拶《あいさつ》をした。
「これはこちらのでしょう。今朝|私《わたし》の家《うち》の裏に落ちていましたから持って来ました」と云いながら、文庫を出した。
 下女は「そうでございましたか、どうも」と簡単に礼を述べて、文庫を持ったまま、板の間の仕切まで行って、仲働《なかばたらき》らしい女を呼び出した。そこで小声に説明をして、品物を渡すと、仲働はそれを受取ったなり、ちょっと宗助の方を見たがすぐ奥へ入った。入《い》れ違《ちがえ》に、十二三になる丸顔の眼の大きな女の子と、その妹らしい揃《そろい》のリボンを懸《か》けた子がいっしょに馳《か》けて来て、小さい首を二つ並べて台所へ出した。そうして宗助の顔を眺《なが》めながら、泥棒よと耳語《ささやき》やった。宗助は文庫を渡してしまえば、もう用が済んだのだから、奥の挨拶はどうでもいいとして、すぐ帰ろうかと考えた。
「文庫は御宅のでしょうね。いいんでしょうね」と念を押して、何《な》にも知らない下女を気の毒がらしているところへ、最前の仲働が出て来て、
「どうぞ御通り下さい」と丁寧《ていねい》に頭を下げたので、今度は宗助の方が少し痛み入るようになった。下女はいよいよしとやかに同じ請求を繰り返した。宗助は痛み入る境を通り越して、ついに迷惑を感じ出した。ところへ主人が自分で出て来た。
 主人は予想通り血色の好い下膨《しもぶくれ》の福相《ふくそう》を具《そな》えていたが、御米の云ったように髭《ひげ》のない男ではなかった。鼻の下に短
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