訳《いいわけ》を半分しながら、嫂《あによめ》の後《あと》に跟《つ》いて、茶の間へ通ったが、縫い掛けてある着物へ眼を着けて、
「相変らず精が出ますね」と云ったなり、長火鉢《ながひばち》の前へ胡坐《あぐら》をかいた。嫂は裁縫を隅《すみ》の方へ押しやっておいて、小六の向《むこう》へ来て、ちょっと鉄瓶《てつびん》をおろして炭を継《つ》ぎ始めた。
「御茶ならたくさんです」と小六が云った。
「厭《いや》?」と女学生流に念を押した御米は、
「じゃ御菓子は」と云って笑いかけた。
「あるんですか」と小六が聞いた。
「いいえ、無いの」と正直に答えたが、思い出したように、「待ってちょうだい、あるかも知れないわ」と云いながら立ち上がる拍子《ひょうし》に、横にあった炭取を取り退《の》けて、袋戸棚《ふくろとだな》を開けた。小六は御米の後姿《うしろすがた》の、羽織《はおり》が帯で高くなった辺《あたり》を眺《なが》めていた。何を探《さが》すのだかなかなか手間《てま》が取れそうなので、
「じゃ御菓子も廃《よ》しにしましょう。それよりか、今日は兄さんはどうしました」と聞いた。
「兄さんは今ちょいと」と後向のまま答えて、御米はやはり戸棚の中を探している。やがてぱたりと戸を締めて、
「駄目よ。いつの間《ま》にか兄さんがみんな食べてしまった」と云いながら、また火鉢の向《むこう》へ帰って来た。
「じゃ晩に何か御馳走《ごちそう》なさい」
「ええしてよ」と柱時計を見ると、もう四時近くである。御米は「四時、五時、六時」と時間を勘定《かんじょう》した。小六は黙って嫂の顔を見ていた。彼は実際嫂の御馳走には余り興味を持ち得なかったのである。
「姉さん、兄さんは佐伯《さえき》へ行ってくれたんですかね」と聞いた。
「この間から行く行くって云ってる事は云ってるのよ。だけど、兄さんも朝出て夕方に帰るんでしょう。帰ると草臥《くたび》れちまって、御湯に行くのも大儀そうなんですもの。だから、そう責めるのも実際御気の毒よ」
「そりゃ兄さんも忙がしいには違なかろうけれども、僕もあれがきまらないと気がかりで落ちついて勉強もできないんだから」と云いながら、小六は真鍮《しんちゅう》の火箸《ひばし》を取って火鉢《ひばち》の灰の中へ何かしきりに書き出した。御米はその動く火箸の先を見ていた。
「だから先刻《さっき》手紙を出しておいたのよ」と慰めるよう
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