に云った。
「何て」
「そりゃ私《わたし》もつい見なかったの。けれども、きっとあの相談よ。今に兄さんが帰って来たら聞いて御覧なさい。きっとそうよ」
「もし手紙を出したのなら、その用には違ないでしょう」
「ええ、本当に出したのよ。今兄さんがその手紙を持って、出しに行ったところなの」
小六はこれ以上弁解のような慰藉《いしゃ》のような嫂《あによめ》の言葉に耳を借したくなかった。散歩に出る閑《ひま》があるなら、手紙の代りに自分で足を運んでくれたらよさそうなものだと思うと余り好い心持でもなかった。座敷へ来て、書棚の中から赤い表紙の洋書を出して、方々|頁《ページ》を剥《はぐ》って見ていた。
二
そこに気のつかなかった宗助《そうすけ》は、町の角《かど》まで来て、切手と「敷島《しきしま》」を同じ店で買って、郵便だけはすぐ出したが、その足でまた同じ道を戻るのが何だか不足だったので、啣《くわ》え煙草《たばこ》の煙《けむ》を秋の日に揺《ゆら》つかせながら、ぶらぶら歩いているうちに、どこか遠くへ行って、東京と云う所はこんな所だと云う印象をはっきり頭の中へ刻みつけて、そうしてそれを今日の日曜の土産《みやげ》に家《うち》へ帰って寝《ね》ようと云う気になった。彼は年来東京の空気を吸って生きている男であるのみならず、毎日役所の行通《ゆきかよい》には電車を利用して、賑《にぎ》やかな町を二度ずつはきっと往《い》ったり来たりする習慣になっているのではあるが、身体《からだ》と頭に楽《らく》がないので、いつでも上《うわ》の空《そら》で素通りをする事になっているから、自分がその賑やかな町の中に活《い》きていると云う自覚は近来とんと起った事がない。もっとも平生《へいぜい》は忙がしさに追われて、別段気にも掛からないが、七日《なのか》に一返《いっぺん》の休日が来て、心がゆったりと落ちつける機会に出逢《であ》うと、不断の生活が急にそわそわした上調子《うわちょうし》に見えて来る。必竟《ひっきょう》自分は東京の中に住みながら、ついまだ東京というものを見た事がないんだという結論に到着すると、彼はそこにいつも妙な物|淋《さび》しさを感ずるのである。
そう云う時には彼は急に思い出したように町へ出る。その上|懐《ふところ》に多少|余裕《よゆう》でもあると、これで一つ豪遊でもしてみようかと考える事もある。
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