はただ弟の顔を眺《なが》めて、一口、
「困ったな」と云った。昔のように赫《かっ》と激して、すぐ叔母の所へ談判に押し掛ける気色《けしき》もなければ、今まで自分に対して、世話にならないでも済む人のように、よそよそしく仕向けて来た弟の態度が、急に方向を転じたのを、悪《にく》いと思う様子も見えなかった。
自分の勝手に作り上げた美くしい未来が、半分|壊《くず》れかかったのを、さも傍《はた》の人のせいででもあるかのごとく心を乱している小六の帰る姿を見送った宗助は、暗い玄関の敷居の上に立って、格子《こうし》の外に射す夕日をしばらく眺《なが》めていた。
その晩宗助は裏から大きな芭蕉《ばしょう》の葉を二枚|剪《き》って来て、それを座敷の縁に敷いて、その上に御米と並んで涼《すず》みながら、小六の事を話した。
「叔母さんは、こっちで、小六さんの世話をしろって云う気なんじゃなくって」と御米が聞いた。
「まあ、逢って聞いて見ないうちは、どう云う料簡《りょうけん》か分らないがね」と宗助が云うと、御米は、
「きっとそうよ」と答えながら、暗がりで団扇《うちわ》をはたはた動かした。宗助は何も云わずに、頸《くび》を延ばして、庇《ひさし》と崖《がけ》の間に細く映る空の色を眺めた。二人はそのまましばらく黙っていたが、良《やや》あって、
「だってそれじゃ無理ね」と御米がまた云った。
「人間一人大学を卒業させるなんて、おれの手際《てぎわ》じゃ到底《とても》駄目だ」と宗助は自分の能力だけを明らかにした。
会話はそこで別の題目に移って、再び小六の上にも叔母の上にも帰って来なかった。それから二三日するとちょうど土曜が来たので、宗助は役所の帰りに、番町の叔母の所へ寄って見た。叔母は、
「おやおや、まあ御珍らしい事」と云って、いつもよりは愛想《あいそ》よく宗助を款待《もてな》してくれた。その時宗助は厭《いや》なのを我慢して、この四五年来溜めて置いた質問を始めて叔母に掛けた。叔母は固《もと》よりできるだけは弁解しない訳に行かなかった。
叔母の云うところによると、宗助の邸宅《やしき》を売払った時、叔父の手に這入《はい》った金は、たしかには覚えていないが、何でも、宗助のために、急場の間に合せた借財を返した上、なお四千五百円とか四千三百円とか余ったそうである。ところが叔父の意見によると、あの屋敷は宗助が自分に提供して行
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