宗助は約十分もかかって、すべての広告を丁寧《ていねい》に三返ほど読み直した。別に行って見ようと思うものも、買って見たいと思うものも無かったが、ただこれらの広告が判然《はっきり》と自分の頭に映って、そうしてそれを一々読み終《おお》せた時間のあった事と、それをことごとく理解し得たと云う心の余裕《よゆう》が、宗助には少なからぬ満足を与えた。彼の生活はこれほどの余裕にすら誇りを感ずるほどに、日曜以外の出入《ではい》りには、落ちついていられないものであった。
 宗助は駿河台下《するがだいした》で電車を降りた。降りるとすぐ右側の窓硝子《まどガラス》の中に美しく並べてある洋書に眼がついた。宗助はしばらくその前に立って、赤や青や縞《しま》や模様の上に、鮮《あざや》かに叩《たた》き込んである金文字を眺めた。表題の意味は無論解るが、手に取って、中を検《しら》べて見ようという好奇心はちっとも起らなかった。本屋の前を通ると、きっと中へ這入《はい》って見たくなったり、中へ這入ると必ず何か欲しくなったりするのは、宗助から云うと、すでに一昔《ひとむか》し前の生活である。ただ History《ヒストリ》 of《オフ》 Gambling《ガムブリング》(博奕史《ばくえきし》)と云うのが、ことさらに美装して、一番真中に飾られてあったので、それが幾分か彼の頭に突飛《とっぴ》な新し味を加えただけであった。
 宗助は微笑しながら、急忙《せわ》しい通りを向側《むこうがわ》へ渡って、今度は時計屋の店を覗《のぞ》き込んだ。金時計だの金鎖が幾つも並べてあるが、これもただ美しい色や恰好《かっこう》として、彼の眸《ひとみ》に映るだけで、買いたい了簡《りょうけん》を誘致するには至らなかった。その癖彼は一々絹糸で釣るした価格札《ねだんふだ》を読んで、品物と見較《みくら》べて見た。そうして実際金時計の安価なのに驚ろいた。
 蝙蝠傘屋《こうもりがさや》の前にもちょっと立ちどまった。西洋|小間物《こまもの》を売る店先では、礼帽《シルクハット》の傍《わき》にかけてあった襟飾《えりかざ》りに眼がついた。自分の毎日かけているのよりも大変|柄《がら》が好かったので、価《ね》を聞いてみようかと思って、半分店の中へ這入《はい》りかけたが、明日《あした》から襟飾りなどをかけ替えたところが下らない事だと思い直すと、急に蟇口《がまぐち》の口を開け
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