木下杢太郎著『唐草表紙』序
夏目漱石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)貴方《あなた》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)五百八十|頁《ページ》
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私は貴方《あなた》から送って下さった校正刷五百八十|頁《ページ》を今日|漸《ようや》く読み了《おわ》りました。漸くというと厭々《いやいや》読んだように聞こえるかも知れませんが、決してそんな訳ではないのです。多大の興味ばかりか、其興味に伴う利益をも受けながら、楽しく読み了ったのです。実をいうと私の都合もあり、又活字組込の関係もありして、長短十八篇の間を休み休み通り抜けたのは、批評を依頼した貴方にも御気の毒ですし、またそれを御約束した私にも多少の不便は出て来たに相違ありませんが、此陥欠を避ける手段は御互になかったのですから、それは双方で我慢する事にして、私の御作に対するざっとした考え丈《だけ》を申し上げます。
まずあなたの特色として第一に私の眼に映ったのは、饒《ゆた》かな情緒を濃《こま》やかにしかも霧《きり》か霞《かすみ》のように、ぼうっと写し出す御手際《おてぎわ》です。何故《なぜ》ぼうっとしているかというと、あなたの筆が充分に冴《さ》えているに拘《かか》わらず、あなたの描く景色なり、小道具なりが、朧月《おぼろづき》の暈《かさ》のように何等か詩的な聯想《れんそう》をフリンジに帯びて、其本体と共に、読者の胸に流れ込むからです。私は特に流れ込むという言葉を此所《ここ》に用いました。もともと淡い影のような像ですから、胸を突つくのでも、鋭く刺すのでもない様です。あなたの書いたもののうちには、人が気狂《きちがい》になる所があります。人が短刀で自殺する所も、短銃《ピストル》で死ぬ所もあります。是等《これら》は大概裏から書くか、又は極《ごく》簡単に叙し去って仕舞《しま》われるので、当り前の場合でも、それ程苦痛に近い強烈な刺戟《しげき》を読者に与えないかも知れませんが、それでも、若《も》し以上に述べたような詩的の雰囲気《ふんいき》の中で事が起らなかったなら、ああした淡い好い感じは与えられますまい。
此ぼうっとした印象が、美的な快感を損《そこな》わない程度の軽い哀愁として、読者の胸にいつの間にか忍び込む理由を、客観的に翻訳すると色々な物象として排列されます。其内で私は歴史的に読者の過去を蕩揺《とうよう》する、草双紙とか、薄暗い倉とか、古臭《ふるくさ》い行灯《あんどん》とか、または旧幕時代から連綿とつづいている旧家とか、温泉場とかを第一に挙《あ》げたいと思います。過去はぼんやりしたものです。そうして何処《どこ》かに懐《なつ》かしい匂いを持っています。あなたはそれを巧《たくみ》に使いこなして居るのでしょう。
単に歴史上の過去ばかりではありません、あなたは自分の幼時の追憶を、今から回顧して忘れられない美くしい夢のように叙述しています。私は一、二、三、四、と段々読んで行くうちに此種の情調が、私の周囲を蜘蛛《くも》の糸の如く取り巻いて、散文的な私を、何時《いつ》の間にか夢幻の世界に連れ込んで行ったのをよく記憶しています。私の心は次第々々に其中に引き込まれて、遂に「珊瑚樹《さんごじゅ》の根付《ねつけ》」迄行って全くあなたの為に擒《とりこ》にされて仕舞ったのです。だから幼時の記憶として其儘《そのまま》を叙述していない「夷講《えびすこう》の夜の事であった」に至って却《かえ》って失望しようとしたのです。
私は此種の筆致《ひっち》を解剖して第二番目に遠くに聞こえる物売の声だの、ハーモニカの節だの、按摩《あんま》の笛《ふえ》の音だのを挙げたいと思います。凡《すべ》て声は聴いているうちにすぐ消えるのが常です。だから其所《そこ》には現在がすぐ過去に変化する無常の観念が潜《ひそ》んでいます。そうして其過去が過去となりつつも、猶《なお》意識の端に幽霊のような朧気《おぼろげ》な姿となって佇立《たたず》んでいて、現在と結び付いているのです。声が一種切り捨てられない夢幻的な情調を構成するのは是が為ではないでしょうか。新内《しんない》とか端唄《はうた》とか歌沢《うたざわ》とか浄瑠璃《じょうるり》とか、凡《すべ》てあなたのよく道具に使われる音楽が、其上に専門的な趣をもって、読者の心を軽く且《か》つ哀れに動かすのは勿論《もちろん》の事ですから申し上げる必要もないでしょう。然《しか》しあまり自分の好尚に溺《おぼ》れて遣《や》り過ぎた痕迹《こんせき》を残したのもないとは云われません。第一編の「硝子《ガラス》問屋」の中にはその筆があまり濃く出過ぎてはいますまいか。
叙景に於てもあなたは矢張り同じ筆法で読者の眼を朦朧《もうろう》と惹《ひ》き付《つ》ける事が好《すき》であるように
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