という。御客を呼んで、その御客が揃《そろ》っているのに、御免を蒙られては大変だから――そんなことを言わないでどうか出てもらいたい、それじゃ出るという事になったが、ブランデスが実は十二人だった所が、段々と人数が殖《ふ》えて二十四人になったというと、そんな嘘を吐《つ》くならもう出ないという。実に手古摺《てこず》らされたということをブランデス自身が書いている。そんな事で色々面倒なことがあった末、ようよう連れて行ってチャンと坐らせた。ところが大将《たいしょう》大いにふくれていて一口も口を利かない、黙っている。まだ面白い話があるけれどもまあこれ位で切り上げてしまいましょう。とにかく人間を代表しても獣《けだもの》を代表しても、イブセンはイブセンを代表していると言った方が宜い。イブセンはイブセンなりと言った方が当っている。そういう特殊な人であります。この話は幼稚でありますが、今のイブセンの道徳の見解からいっても、イブセンはイミテーションという側の反対に立った人といわなければならない訳であります。
 それで、人間にはこの二通りの人がある。というと、片方と片方は紅白見たように別れているように見えますが、一人の人がこの両面を有《も》っているということが一番適切である。人間には二種の何とかがあるということを能《よ》くいうものですが、それは大変間違いだ。そうすると片方は片方だけの性格しか具《そな》えていないようになる。議論する人はそういう風になるから、あとがどうも事実から出発していない議論に陥ってしまう。とにかく二通りの人間があるということを言うが、これはこの両面を持っているというのが、これが本統《ほんとう》の事でしょう。いくらオリヂナルの人でもイミテーションの分子を何処かに持っている。イミテーションの側に立って考えると、これはどういう人がイミテーターかというと、要するにイミテーターというものは人の真似をする。それだから自分に標準はない。あるいはあっても標準を立て通すだけの強い猛烈な勇気を欠いているか、どっちかなのである。しかしながらインデペンデントの側の方は、自分に一種の目安《めやす》がある。アイデアル・センセーション、それが個人的になっておって、とにかくそれを言い現わし、それを実行しなければいても立ってもどうしてもいられない。風変《ふうがわ》りではあるが、人からいくら非難されても、御前《おまえ》は風変りだと言われても、どうしてもこうしなければいられない。藪睨《やぶにら》みは藪睨みで、どうしても横ばかり見ている。これはインデペンデントの方の分子を余計|有《も》っている人である。だからこういう人というものは寔《まこと》に厄介《やっかい》なもので、世の中の人と歩調を共にすることは出来ない。おい君湯に行こう、僕は水を被《かぶ》る、君散歩に行かないか、俺は行かない座禅《ざぜん》をする、君飯を食わんか、僕はパンを食う、そういうようなインデペンデントな人になっては手が付けられない。到底一緒に住む事は困難である。しかし人に困難を与えるから気の毒な感じがないかというと、そうではない。唯そんな事は考えていられないのでしょう。それが本統のインデペンデントの人といわなければならぬ。厄介ではあるけれども、イミテートする人あるいは自己の標準を欠いていて差《さ》し障《さわ》りのない方が間違いがなくて安心だというような人に比べれば、自己の標準があるだけでもこっちの方が恕《ゆる》すべく貴ぶべし――といったらどんな奴が出て来るか分らぬが、事実貴ぶべき人もありましょう。とにかくインデペンデントの人にはまあ恕すべきものがあると思うです。
 元来私はこういう考えを有《も》っています。泥棒をして懲役《ちょうえき》にされた者、人殺をして絞首台《こうしゅだい》に臨《のぞ》んだもの、――法律上罪になるというのは徳義上の罪であるから公《おおやけ》に所刑《しょけい》せらるるのであるけれども、その罪を犯した人間が、自分の心の径路《けいろ》をありのままに現わすことが出来たならば、そうしてそのままを人にインプレッスする事が出来たならば、総《すべ》ての罪悪というものはないと思う。総て成立しないと思う。それをしか思わせるに一番|宜《よ》いものは、ありのままをありのままに書いた小説、良く出来た小説です。ありのままをありのままに書き得る人があれば、その人は如何なる意味から見ても悪いということを行《おこな》ったにせよ、ありのままをありのままに隠しもせず漏らしもせず描き得たならば、その人は描いた功徳《くどく》に依って正《まさ》に成仏《じょうぶつ》することが出来る。法律には触れます懲役にはなります。けれどもその人の罪は、その人の描いた物で十分に清められるものだと思う。私は確かにそう信じている。けれどもこれは、世の中に法律とか何とかいうものは要《い》らない、懲役にすることも要らない、そういう意味ではありませんよ。それは能《よ》く申しますると、如何に傍《はた》から見て気狂《きちがい》じみた不道徳な事を書いても、不道徳な風儀を犯しても、その経過を何にも隠さずに衒《てら》わずに腹の中をすっかりそのままに描き得たならば、その人はその人の罪が十分に消えるだけの立派な証明を書き得たものだと思っているから、さっきいったような、インデペンデントの主義標準を曲げないということは恕《ゆる》すべきものがあるといったような意味において、立派に恕すべきであるという事が出来ると、私は考えるのであります。
 しかしこういう風にインデペンデントの人というものは、恕すべく或時は貴《たっと》むべきものであるかも知れないけれども、その代りインデペンデントの精神というものは非常に強烈でなければならぬ。のみならずその強烈な上に持って来て、その背後には大変深い背景を背負った思想なり感情なりがなければならぬ。如何となれば、もし薄弱なる背景があるだけならば、徒《いたずら》にインデペンデントを悪用して、唯世の中に弊害を与えるだけで、成功はとても出来ないからである。
 此処《ここ》に成功という意味についても説明を要する。また強い背景という事についても説明を要するが、強い背景というものは何だというと、それは別なものではありません。例えば私なら私が世の中の仕来《しきた》りに反したことを、断言し、宣言し、そうしてそれを実行する。その時に、もしそれが根柢のない事を遣《や》っているならば、如何に私自身にはそれが必然の結果であり、私自身には必要であろうとも、人間として他の人のためにならない。何らの影響を与える事が出来ない。何らの影響を与える事が出来なければ、私は文字に現われたるインデペンデントであって、その文字に現われたるインデペンデントなことをして、最後に文字に現われたるインデペンデントで死ななければならない。人には何らの影響を与えざるのみならず、そのインデペンデントは人の感情を害し、法則というものに一種の波動を起して、人に一種の不愉快を醸《かも》させるに過ぎないのであります。それではどんな風な深い背景を有《も》っていなければならないかというと、例えば非常に個人主義のような仏蘭西《フランス》革命でも、明治改革でも宜《よろ》しゅう御座います。徳川家が将軍に成《な》った末で余り勢いは強くなかったけれども、とにかく将軍というものが政権を持っておってその上に天子様《てんしさま》がおられるという。これは一般の法則でないという処から、習慣的に続いて来た幕府というものを引っ繰り返したというのは、その引っ繰り返るという時の人の胸中《きょうちゅう》に同情があって、その同情を惹《ひ》き起すという事が出来なければ、あれは成功は出来ないのである。だから徒《いたずら》にインデペンデントということは不可《いけ》ない。人間の自覚というものは一歩先へ先へと来るものである。一歩遅れたら人より一歩遅れて歩行《ある》かなければならない。人は相当の時期が来ればその通りになるべき運命を持っているのだから、一歩先に啓発しなければならぬ。それが強い深い背景といえばいえる。それがなければ成功は出来ない。
 成功ということについて歴史などの例を挙げたが、誤解されるといけないからここに手近い例をもう一つ挙げて置きたい。学校騒動があってその学校の校長さんが代る。この学校ではありませんよ。そうすると後に新しい校長さんが来ましょう。そうしてその学校騒動を鎮《しず》めに掛《かか》る。その時は色々思案もやりましょう計画も要《い》りましょう。刷新《さっしん》も色々ありましょう。そうして旨《うま》く往《い》けばあの人は成功したといわれる。成功したというと、その人の遣口《やりくち》が刷新でもなく、改革でもなく、整理でもなくても、その結果が宜いと、唯その結果だけを見て、あの人は成功した、なるほどあの人は偉いということになる。ところが騒動が益《ますます》大きくなる。そうすると今まで遣《や》ったその人の一切の事が非難せられる。同じ事を同じように遣っても、結果に行って好ければ成功だというが、同じ事をしても結果に行って悪いと、直ぐにあの人の遣口は悪いという。その遣方《やりかた》の実際を見ないで、結果ばかりを見ていうのである。その遣方の善《よ》し悪《あ》しなどは見ないで、唯結果ばかり見て批評をする。それであの人は成功したとか失敗したとかいうけれども、私の成功というのはそういう単純な意味ではない。仮令《たとい》その結果は失敗に終っても、その遣ることが善いことを行い、それが同情に値いし、敬服に値いする観念を起させれば、それは成功である。そういう意味の成功を私は成功といいたい。十字架の上に磔《はりつけ》にされても成功である。こういうのは余り宜《よ》い成功ではないかも知らぬが、成功には相違ない。これはテンポラルな意味で宗教的の意味ではない。乃木《のぎ》さんが死にましたろう。あの乃木さんの死というものは至誠《しせい》より出《い》でたものである。けれども一部には悪い結果が出た。それを真似して死ぬ奴が大変出た。乃木さんの死んだ精神などは分らんで、唯形式の死だけを真似する人が多いと思う。そういう奴が出たのは仮に悪いとしても、乃木さんは決して不成功ではない。結果には多少悪いところがあっても、乃木さんの行為の至誠であるということはあなた方を感動せしめる。それが私には成功だと認められる。そういう意味の成功である。だからインデペンデントになるのは宜いけれども、それには深い背景を持ったインデペンデントとならなければ成功は出来ない。成功という意味はそう言う意味でいっている。
 それで人間というものには二通りの色合《いろあい》があるということは今申した通りですが、このイミテーションとインデペンデントですが、片方はユニテー――人の真似をしたり、法則に囚《とら》われたりする人である。片方は自由、独立の径路を通って行く。これは人間のそのバライエテーを形作っている。こういう両面を持っているのではありますけれども、先ず今日までの改正とか改革とか刷新とか名のつくものは、そういうような意味で、知識なり感情なり経験なりを豊富にされる土台は、インデペンデントな人が出て来なければ出来ない事である。もしそれが出来なかったならば、われわれはわれわれの過去の歴史を顧《かえり》みて如何に貧弱であるかということを考えれば、その人は如何にわれわれの経験を豊富にしてくれたかということが能《よ》く分るのであります。その意味でインデペンデントというものは大変必要なものである。私はイミテーションを非難しているのではないけれども、人間の持って生れた高尚な良いものを、もしそれだけ取り去ったならば、心の発展は出来ない。心の発展はそのインデペンデントという向上心なり、自由という感情から来るので、われわれもあなた方もこの方面に修養する必要がある。そういうことをしないでも生きてはいられます。また自分の内心にそういう要求のないのに、唯その表面だけ突飛《とっぴ》なことを遣《や》る必要は無論ない。イミテーションで済まし得る人はそ
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