大人《おとな》しい、能《よ》く出来ていると思います。われわれは実に乱暴であった。その悪戯《いたずら》の例はいくらもあります。それを御話するために此処へ登ったんじゃないが、如何にわれわれが悪かったかということを懺悔《ざんげ》するために御話するのであるから、その真似をしちゃいけませんよ。現に彼処《あすこ》に教場に先生の机がある。先ず私たちは時間の合間《あいま》合間に砂糖わりの豌豆豆《えんどうまめ》を買って来て教場の中で食べる。その豌豆豆が残るとその残った豌豆豆を先生の机の抽斗《ひきだし》の中に入れて置く。歴史の先生に長沢市蔵という人がいる。われわれがこれを渾名《あだな》してカッパードシヤといっている。何故カッパードシヤというかというと、なんでもカッパードシヤとか何とかいう希臘《ギリシャ》の地名か何かある。今は忘れてしまいましたが、希臘の歴史を教える時、その先生がカッパードシヤカッパードシヤと一時間の内幾回となく繰り返す。それでカッパードシヤという渾名が付いた。この長沢先生の時間と覚えておりますが、その先生がカッパードシヤカッパードシヤとボールドへ書くので、そのカッパードシヤを書こうとしてチョークを捜すために抽斗を明けると、その抽斗の中から豆ががらがらと出て来たというような話がある。これは先生を侮辱《ぶじょく》した訳ではありません、また先生に見せるためにわざわざ遣ったのでもありませんが、とにかくよほど予備門などにおったわれわれ時代の書生の風儀《ふうぎ》は乱暴でありました。現にこの学校の中を下駄《げた》で歩くのです。私も下駄で始終歩いた一人で、今はついでだから話しますが、私が此所に這入った時に丁度|杉浦重剛《すぎうらしげたけ》先生が校長で此所《ここ》の呼び者になっていた。この時二十八歳だったかと思います。大変若くて呼び者であったが、暫くするとこういう貼出《はりだ》しが出ました。学校の中を下駄を穿《は》いて歩いてはいけない。それは当然の事ですが、わざわざ貼り出さなければならんほど下駄を穿いて歩いていたものと私は考える。然《しか》るに貼出しがあって暫くしても、私は下駄を穿いて歩いていた。或日の事、丁度三時過ぎです。今頃で、もう誰もいまいと思って、下駄を穿いて、威張って歩けと思って、ドンドン歩いて行った。すると廊下を曲る途端《とたん》に杉浦重剛さんにパタリと出会った。私は乱暴書生
前へ
次へ
全24ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング