《おまえ》は風変りだと言われても、どうしてもこうしなければいられない。藪睨《やぶにら》みは藪睨みで、どうしても横ばかり見ている。これはインデペンデントの方の分子を余計|有《も》っている人である。だからこういう人というものは寔《まこと》に厄介《やっかい》なもので、世の中の人と歩調を共にすることは出来ない。おい君湯に行こう、僕は水を被《かぶ》る、君散歩に行かないか、俺は行かない座禅《ざぜん》をする、君飯を食わんか、僕はパンを食う、そういうようなインデペンデントな人になっては手が付けられない。到底一緒に住む事は困難である。しかし人に困難を与えるから気の毒な感じがないかというと、そうではない。唯そんな事は考えていられないのでしょう。それが本統のインデペンデントの人といわなければならぬ。厄介ではあるけれども、イミテートする人あるいは自己の標準を欠いていて差《さ》し障《さわ》りのない方が間違いがなくて安心だというような人に比べれば、自己の標準があるだけでもこっちの方が恕《ゆる》すべく貴ぶべし――といったらどんな奴が出て来るか分らぬが、事実貴ぶべき人もありましょう。とにかくインデペンデントの人にはまあ恕すべきものがあると思うです。
元来私はこういう考えを有《も》っています。泥棒をして懲役《ちょうえき》にされた者、人殺をして絞首台《こうしゅだい》に臨《のぞ》んだもの、――法律上罪になるというのは徳義上の罪であるから公《おおやけ》に所刑《しょけい》せらるるのであるけれども、その罪を犯した人間が、自分の心の径路《けいろ》をありのままに現わすことが出来たならば、そうしてそのままを人にインプレッスする事が出来たならば、総《すべ》ての罪悪というものはないと思う。総て成立しないと思う。それをしか思わせるに一番|宜《よ》いものは、ありのままをありのままに書いた小説、良く出来た小説です。ありのままをありのままに書き得る人があれば、その人は如何なる意味から見ても悪いということを行《おこな》ったにせよ、ありのままをありのままに隠しもせず漏らしもせず描き得たならば、その人は描いた功徳《くどく》に依って正《まさ》に成仏《じょうぶつ》することが出来る。法律には触れます懲役にはなります。けれどもその人の罪は、その人の描いた物で十分に清められるものだと思う。私は確かにそう信じている。けれどもこれは、世の中に法
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