ことの沢山な例を記憶しておりませんが、茲処《ここ》に二つ三つあります。例えば、一人の人が往来で洋傘を広げて見ようとすると、同行している隣りの女もきっと洋傘を広げるという。こういう風に一般に或《ある》程度まではそうです。往来で空を眺めていると二人立ち三人立つのは訳はなくやる。それで空に何かあるかというと、飛行船が飛んでいる訳でも何でもない。けれども飛行船が飛んでいるとか何とかいえば、大勢の群集が必ず空を仰いで見る。その時に何か空中に飛行船でも認めしむることが出来ないとも限らない。
 それほど人間という者は人の真似をするように出来ている情けないものであります。それでその、人の真似をするということは、子供の内から始まって、今言ったような些末《さまつ》の事柄ばかりでない、道徳的にもあるいは芸術的にも、社会上においてもそうである。無論流行などは人の真似をする。われわれが極《ご》く子供の内は東京の者はこんな薩摩飛白《さつまがすり》などは決して着せません。田舎者でなければ着ないものでした。それを今の書生は大抵皆薩摩飛白を着る。安いからか知りませんが、皆着るようになった。それから一時白い羽織《はおり》の紐《ひも》の毛糸《けいと》か何かの長いのをこう――結んで胸から背負って頸《くび》に掛けておった。あれも一人|遣《や》るとああなるのであります。私たちの若い時は羽織の紋《もん》が一つしきゃないのを着て通人《つうじん》とか何とかいって喜んでいた。それが近頃は五つ紋をつけるようになった。それも大きなのが段々小さくなったようだが、近頃どの位になっているのか。私は羽織の紋が余り大きいから流行に後《おく》れぬように小さくした位それほど流行というものは人を圧迫して来る。圧迫するのじゃないが、流行にこっちから赴《おもむ》くのです。イミテーターとして人の真似をするのが人間の殆ど本能です。人の真似がしたくなるのです。こういう洋服でも二十年前の洋服は余り着られない。この間《あいだ》着ていた人を見たけれども可笑《おか》しいです。あまり見っとも宜《よ》いものではない。殊に女なんぞは、二十年前の女の写真なんぞは非常に可笑しい。本来の意味では可笑しいとは自分で思っていないけれども、熟々《つくづく》見ると、やはり模倣ということに重きを置く結果、どうもその自分と異《ことな》った物、あるいは世間と異ったものは可笑しく見
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