ごとく長々と説明したくなるが――極めて低級に属する頭脳をもった人類で、同時に比較的芸術心に富んだ人類が、同程度の人類の要求に応ずるために作ったものをやってるからだろうと思う。例を挙《あ》げると、いくらもあるが、丸橋忠弥とかいう男が、酒に酔いながら、濠《ほり》の中へ石を抛《な》げて、水の深浅を測《はか》るところが、いかにも大事件であるごとく、またいかにも豪《えら》そうな態度で、またいかにも天下の智者でなくっちゃ、こんな真似《まね》はできないぞと云わぬばかりにもったいぶってやる。そのもったいぶるところを見物がわっと喝采《かっさい》するのである。が、常識から判断すれば誰にでも考えつく事で、誰にでもやれる事で、やったってしようのない事である。だからもったいぶり方はいくら芸術的にうまくできたって、うまくできればできるほどおかしくするだけである。それを心から感心して見るのは、どうしたって、本町の生薬屋《きぐすりや》の御神《おかみ》さんと同程度の頭脳である。こんな謀反人《むほんにん》なら幾百人出て来たって、徳川の天下は今日までつづいているはずである。松平伊豆守なんてえ男もこれと同程度である。番傘《ばんがさ》を忠弥に差し懸《か》けて見たりなんかして、まるで利口ぶった十五六の少年ぐらいな頭脳しかもっていない。だから、これらはまるで野蛮人の芸術である。子供がまま事に天下を取《と》り競《くら》をしているところを書いた脚本である。世間見ずの坊ちゃんの浅薄愚劣なる世界観を、さもさも大人ぶって表白した筋書である。こんなものを演ぜねばならぬ役者はさぞかし迷惑な事だろうと思う。あの芸は、あれより数十倍利用のできる芸である。
○油屋御こんなどもむやみに刀をすり更《か》えたり、手紙を奪い合ったり、まるで真面目《まじめ》な顔をして、いたずらをして見せると同じである。
○祐天《ゆうてん》なぞでも、あれだけの思いつきがあれば、もう少しハイカラにできる訳だ。不動の御利益《ごりやく》が蛮からなんじゃない。神が出ても仏が出てもいっこう差支《さしつかえ》ないが、たかが如是我聞《にょぜがもん》の一二句で、あれ程の人騒がせをやるのみならず、不動様まで騒がせるのは、開明の今日《こんにち》はなはだ穏かならぬ事と思う。あれじゃ不動様が安っぽくなるばかりだ。不動をあらたか[#「あらたか」に傍点]にしようと思ったら、もう少し深い
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