になりまして」と云った。けれども夫人はその時その津田については一言《ひとこと》も口を利かなかった。自分が挨拶を交換した最後の同席者である以上、そこにはそれだけの口を利く余裕が充分あったにも関わらず、夫人は、すぐよそを向いてしまった。そうして二三日前《にさんちまえ》津田から受けた訪問などは、まるで忘れているような風をした。
お延は夫人のこの挙動を、自分が嫌《きら》われているからだとばかり解釈しなかった。嫌われている上に、まだ何か理由があるに違ないと思った。でなければ、いくら夫人でも、とくに津田の名前を回避するような素振《そぶり》を、彼の妻たるものに示すはずがないと思った。彼女は自分の夫がこの夫人の気に入っているという事実をよく承知していた。しかし単に夫を贔負《ひいき》にしてくれるという事が、何でその人を妻の前に談話の題目として憚《はば》かられるのだろう。お延は解らなかった。彼女が会食中、当然|他《ひと》に好かれべき女性としての自己の天分を、夫人の前に発揮するために、二人の間に存在する唯一《ゆいいつ》の共通点とも見られる津田から出立しようと試みて、ついに出立し得なかったのも、一つはこれが胸に痞《つか》えていたからであった。それをいよいよ席を立とうとする間際《まぎわ》になって、向うから切り出された時のお延は、ただ夫人の云訳に対してのみ、嘘《うそ》らしいという疑を抱《いだ》くだけではすまなかった。今頃になって夫の病気の見舞をいってくれる夫人の心の中には、やむをえない社交上の辞令以外に、まだ何か存在しているのではなかろうかと考えた。
「ありがとうございます。お蔭《かげ》さまで」
「もう手術をなすったの」
「ええ今日《こんち》」
「今日《きょう》? それであなたよくこんな所へ来られましたね」
「大した病気でもございませんものですから」
「でも寝ていらっしゃるんでしょう」
「寝てはおります」
夫人はそれで構わないのかという様子をした。少なくとも彼女の黙っている様子がお延にはそう見えた。他《ひと》に対して男らしく無遠慮にふるまっている夫人が、自分にだけは、まるで別な人間として出てくるのではないかと思われた。
「病院へ御入《おはい》りになって」
「病院と申すほどの所ではございませんが、ちょうどお医者様の二階が空《あ》いておるので、五六日《ごろくんち》そこへおいていただく事にしております」
夫人は医者の名前と住所《ところ》とを訊《き》いた。見舞に行くつもりだとも何とも云わなかったけれども、実はそのために、わざわざ津田の話を持ち出したのじゃなかろうかという気のしたお延は、始めて夫人の意味が多少自分に呑み込めたような心持もした。
夫人と違って最初から津田の事をあまり念頭においていなかったらしい吉川は、この時始めて口を出した。
「当人に聞くと、去年から病気を持ち越しているんだってね。今の若さにそう病気ばかりしちゃ仕方がない。休むのは五六日に限った事もないんだから、癒《なお》るまでよく養生するように、そう云って下さい」
お延は礼を云った。
食堂を出た七人は、廊下でまた二組に分れた。
五十六
残りの時間を叔母の家族とともに送ったお延には、それから何の波瀾《はらん》も来なかった。ただ褞袍《どてら》を着て横臥《おうが》した寝巻姿《ねまきすがた》の津田の面影《おもかげ》が、熱心に舞台を見つめている彼女の頭の中に、不意に出て来る事があった。その面影は今まで読みかけていた本を伏せて、ここに坐っている彼女を、遠くから眺めているらしかった。しかしそれは、彼女が喜こんで彼を見返そうとする刹那《せつな》に、「いや疳違《かんちが》いをしちゃいけない、何をしているかちょっと覗《のぞ》いて見ただけだ。お前なんかに用のあるおれじゃない」という意味を、眼つきで知らせるものであった。騙《だま》されたお延は何だ馬鹿らしいという気になった。すると同時に津田の姿も幽霊のようにすぐ消えた。二度目にはお延の方から「もうあなたのような方の事は考えて上げません」と云い渡した。三度目に津田の姿が眼に浮んだ時、彼女は舌打《したうち》をしたくなった。
食堂へ入る前の彼女はいまだかつて夫の事を念頭においていなかったので、お延に云わせると、こういう不可抗な心の作用は、すべて夕飯後《ゆうめしご》に起った新らしい経験にほかならなかった。彼女は黙って前後|二様《によう》の自分を比較して見た。そうしてこの急劇な変化の責任者として、胸のうちで、吉川夫人の名前を繰《く》り返《かえ》さない訳に行かなかった。今夜もし夫人と同じ食卓《テーブル》で晩餐《ばんさん》を共にしなかったならば、こんな変な現象はけっして自分に起らなかったろうという気が、彼女の頭のどこかでした。しかし夫人のいかなる点が、この苦《にが》い酒を醸《かも》す醗酵分子《はっこうぶんし》となって、どんな具合に彼女の頭のなかに入り込んだのかと訊《き》かれると、彼女はとても判然《はっきり》した返事を与えることができなかった。彼女はただ不明暸《ふめいりょう》な材料をもっていた。そうして比較的明暸な断案に到着していた。材料に不足な掛念《けねん》を抱《いだ》かない彼女が、その断案を不備として疑うはずはなかった。彼女は総《すべ》ての源因が吉川夫人にあるものと固く信じていた。
芝居が了《は》ねていったん茶屋へ引き上げる時、お延はそこでまた夫人に会う事を恐れた。しかし会ってもう少し突ッ込んで見たいような気もした。帰りを急ぐ混雑《ごたごた》した間際《まぎわ》に、そんな機会の来るはずもないと、始めから諦《あき》らめている癖に、そうした好奇の心が、会いたくないという回避の念の蔭《かげ》から、ちょいちょい首を出した。
茶屋は幸にして異《ちが》っていた。吉川夫婦の姿はどこにも見えなかった。襟《えり》に毛皮の付いた重そうな二重廻《にじゅうまわ》しを引掛《ひっか》けながら岡本がコートに袖《そで》を通しているお延を顧《かえり》みた。
「今日は宅《うち》へ来て泊って行かないかね」
「え、ありがとう」
泊るとも泊らないとも片づかない挨拶《あいさつ》をしたお延は、微笑しながら叔母を見た。叔母はまた「あなたの気楽さ加減にも呆《あき》れますね」という表情で叔父を見た。そこに気がつかないのか、あるいは気がついても無頓着《むとんじゃく》なのか、彼は同じ事を、前よりはもっと真面目《まじめ》な調子で繰り返した。
「泊って行くなら、泊っといでよ。遠慮は要《い》らないから」
「泊っていけったって、あなた、宅《うち》にゃ下女がたった一人で、この子の帰るのを待ってるんですもの。そんな事無理ですわ」
「はあ、そうかね、なるほど。下女一人じゃ不用心だね」
そんなら止《よ》すが好かろうと云った風の様子をした叔父は、無論最初からどっちでも構わないものをちょっと問題にして見ただけであった。
「あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩も御厄介《ごやっかい》になった事はなくってよ」
「はあ、そうだったかね。それは感心に品行方正の至《いたり》だね」
「厭だ事。――由雄だって外へ泊った事なんか、まだ有りゃしないわ」
「いや結構ですよ。御夫婦お揃《そろい》で、お堅くっていらっしゃるのは――」
「何よりもって恐悦至極《きょうえつしごく》」
先刻《さっき》聞いた役者の言葉を、小さな声で後《あと》へ付け足した継子は、そう云った後で、自分ながらその大胆さに呆《あき》れたように、薄赤くなった。叔父はわざと大きな声を出した。
「何ですって」
継子はきまりが悪いので、聞こえないふりをして、どんどん門口《かどぐち》の方へ歩いて行った。みんなもその後《あと》に随《つ》いて表へ出た。
車へ乗る時、叔父はお延に云った。
「お前|宅《うち》へ泊れなければ、泊らないでいいから、その代りいつかおいでよ、二三日中《にさんちじゅう》にね。少し訊《き》きたい事があるんだから」
「あたしも叔父さんに伺わなくっちゃならない事があるから、今日のお礼かたがた是非上るわ。もしか都合ができたら明日《あした》にでも伺ってよ、好くって」
「オー、ライ」
四人の車はこの英語を相図《あいず》に走《か》け出《だ》した。
五十七
津田の宅《うち》とほぼ同じ方角に当る岡本の住居《すまい》は、少し道程《みちのり》が遠いので、三人の後《あと》に随《つ》いたお延の護謨輪《ゴムわ》は、小路《こうじ》へ曲る例の角《かど》までいっしょに来る事ができた。そこで別れる時、彼女は幌《ほろ》の中から、前に行く人達に声をかけた。けれどもそれが向うへ通じたか通じないか分らないうちに、彼女の俥《くるま》はもう電車通りを横に切れていた。しんとした小路の中で、急に一種の淋《さみ》しさが彼女の胸を打った。今まで団体的に旋回していたものが、吾知《われし》らず調子を踏《ふ》み外《はず》して、一人|圏外《けんがい》にふり落された時のように、淡いながら頼りを失った心持で、彼女は自分の宅《うち》の玄関を上った。
下女は格子《こうし》の音を聞いても出て来なかった。茶の間には電灯が明るく輝やいているだけで、鉄瓶《てつびん》さえいつものように快い音を立てなかった。今朝《けさ》見たと何の変りもない室《へや》の中を、彼女は今朝と違った眼で見廻した。薄ら寒い感じが心細い気分を抱擁《ほうよう》し始めた。その瞬間が過ぎて、ただの淋しさが不安の念に変りかけた時、歓楽に疲れた身体《からだ》を、長火鉢《ながひばち》の前に投げかけようとした彼女は、突然勝手口の方を向いて「時、時」と下女の名前を呼んだ。同時に勝手の横に付いている下女部屋の戸を開けた。
二畳敷の真中に縫物をひろげて、その上に他愛《たわい》なく突ッ伏していたお時は、急に顔を上げた。そうしてお延を見るや否や、いきなり「はい」という返事を判然《はっきり》して立ち上った。それと共に、針仕事のため、わざと低目にした電灯の笠へ、崩《くず》れかかった束髪の頭をぶつけたので、あらぬ方《かた》へ波をうった電球が、なおのこと彼女を狼狽《ろうばい》させた。
お延は笑いもしなかった。叱る気にもならなかった。こんな場合に自分ならという彼我《ひが》の比較さえ胸に浮かばなかった。今の彼女には寝ぼけたお時でさえ、そこにいてくれるのが頼母《たのも》しかった。
「早く玄関を締《し》めてお寝。潜《くぐ》りの※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》はあたしがかけて来たから」
下女を先へ寝かしたお延は、着物も着換えずにまた火鉢《ひばち》の前へ坐った。彼女は器械的に灰をほじくって消えかかった火種に新らしい炭を継《つ》ぎ足《た》した。そうして家庭としては欠くべからざる要件のごとくに、湯を沸《わ》かした。しかし夜更《よふけ》に鳴る鉄瓶《てつびん》の音に、一人耳を澄ましている彼女の胸に、どこからともなく逼《せま》ってくる孤独の感が、先刻《さっき》帰った時よりもなお劇《はげ》しく募《つの》って来た。それが平生遅い夫の戻りを待ちあぐんで起す淋《さび》しみに比べると、遥《はる》かに程度が違うので、お延は思わず病院に寝ている夫の姿を、懐《なつ》かしそうに心の眼で眺めた。
「やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ」
彼女は自分の頭の中に描き出した夫の姿に向ってこう云った。そうして明日《あした》は何をおいても、まず病院へ見舞に行かなければならないと考えた。しかし次の瞬間には、お延の胸がもうぴたりと夫の胸に食《くっ》ついていなかった。二人の間に何だか挟《はさ》まってしまった。こっちで寄り添おうとすればするほど、中間《ちゅうかん》にあるその邪魔ものが彼女の胸を突ッついた。しかも夫は平気で澄ましていた。半《なか》ば意地になった彼女の方でも、そんなら宜《よろ》しゅうございますといって、夫に背中を向けたくなった。
こういう立場まで来ると、彼女の空想は会釈《えしゃく》なく吉川夫人の上に飛び移らなければならなかった。芝居場で一度考えた通り、もし今夜あの夫
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