共吉川の姿はそこに見えなかった。
「どこかへ行かれたのかい」
津田は下へ降りたついでに玄関にいる給使《きゅうじ》に訊《き》いた。眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。
「ええ先刻《さっき》御客さまといっしょに御出かけになりました。ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ」
毎日人の出入《でいり》の番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。津田はだれが伴《つ》れて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにしておいて、また自分の机の前に立ち戻った。そうしてそこで定刻まで例のごとく事務を執《と》った。
時間になった時、彼はほかの人よりも一足|後《おく》れて大きな建物を出た。彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、また隠袋《ポッケット》から時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためで
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