った彼女はまた自分で玄関の格子戸《こうしど》を開けて夫を先へ入れた。それから自分も夫の後《あと》に跟《つ》いて沓脱《くつぬぎ》から上《あが》った。
夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田が火鉢《ひばち》の前に坐《すわ》るか坐らないうちに、また勝手の方から石鹸入《しゃぼんいれ》を手拭《てぬぐい》に包んで持って出た。
「ちょっと今のうち一風呂《ひとふろ》浴びていらっしゃい。またそこへ坐り込むと臆劫《おっくう》になるから」
津田は仕方なしに手を出して手拭《てぬぐい》を受取った。しかしすぐ立とうとはしなかった。
「湯は今日はやめにしようかしら」
「なぜ。――さっぱりするから行っていらっしゃいよ。帰るとすぐ御飯にして上げますから」
津田は仕方なしにまた立ち上った。室《へや》を出る時、彼はちょっと細君の方をふり返った。
「今日帰りに小林さんへ寄って診《み》て貰って来たよ」
「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。おおかたもう癒《なお》ってるんでしょう」
「ところが癒らない。いよいよ厄介な事になっちまった」
津田はこう云ったなり、後《あと》を聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。
同じ話題が再び夫婦の間《あいだ》に戻って来たのは晩食《ゆうめし》が済んで津田がまだ自分の室へ引き取らない宵《よい》の口《くち》であった。
「厭《いや》ね、切るなんて、怖《こわ》くって。今までのようにそっとしておいたってよかないの」
「やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」
「だけど厭だわ、あなた。もし切り損ないでもすると」
細君は濃い恰好《かっこう》の好い眉《まゆ》を心持寄せて夫を見た。津田は取り合ずに笑っていた。すると細君が突然気がついたように訊《き》いた。
「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」
細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。
「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」
「でもそりゃ悪いわ、あなた。せっかく親切にああ云ってくれるものを断《ことわ》っちゃ」
「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」
「でもあたし行きたいんですもの」
「御前は行きたければおいでな」
「だからあなたもいらっしゃいな、ね。御厭《おいや》?」
津田は細君の顔を見て苦笑を洩《も》らした。
四
細君は色の白い女であった。そのせいで形の好い彼女の眉《まゆ》が一際《ひときわ》引立って見えた。彼女はまた癖のようによくその眉を動かした。惜しい事に彼女の眼は細過ぎた。おまけに愛嬌《あいきょう》のない一重瞼《ひとえまぶち》であった。けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳子《ひとみ》は漆黒《しっこく》であった。だから非常によく働らいた。或時は専横《せんおう》と云ってもいいくらいに表情を恣《ほしい》ままにした。津田は我知らずこの小《ちい》さい眼から出る光に牽《ひ》きつけられる事があった。そうしてまた突然何の原因もなしにその光から跳《は》ね返される事もないではなかった。
彼がふと眼を上げて細君を見た時、彼は刹那《せつな》的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。それは今まで彼女の口にしつつあった甘い言葉とは全く釣り合わない妙な輝やきであった。相手の言葉に対して返事をしようとした彼の心の作用がこの眼つきのためにちょっと遮断《しゃだん》された。すると彼女はすぐ美くしい歯を出して微笑した。同時に眼の表情があとかたもなく消えた。
「嘘《うそ》よ。あたし芝居なんか行かなくってもいいのよ。今のはただ甘ったれたのよ」
黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった。
「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。――芝居はもうやめるから、この次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。それで好いでしょう。岡本へは二三日中《にさんちじゅう》に端書《はがき》を出すか、でなければ私がちょっと行って断わって来ますから」
「御前は行ってもいいんだよ。せっかく誘ってくれたもんだから」
「いえ私も止《よ》しにするわ。芝居よりもあなたの健康の方が大事ですもの」
津田は自分の受けべき手術についてなお詳《くわ》しい話を細君にしなければならなかった。
「手術ってたって、そう腫物《できもの》の膿《うみ》を出すように簡単にゃ行かないんだよ。最初|下剤《げざい》をかけてまず腸を綺麗《きれい》に掃除しておいて、それからいよいよ切開すると、出血の危険があるかも知れないというので、創口《きずぐち》へガーゼを詰《つ》めたまま、五六日の間はじっとして寝ているんだそうだから。だからたといこの次の日曜に行くとしたところで、どうせ日曜一日じゃ済まないんだ。その代り日曜が延びて月曜になろうとも火曜
前へ
次へ
全187ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング