ね……」
津田は連れて行きたくない心の内を、しだいしだいに外へ押し出されそうになった。もし猜疑《さいぎ》の眸《ひとみ》が一度お延の眼の中に動いたら事はそれぎりであると見てとった彼は、実を云うと、お延と同じ心理状態の支配を受けていた。先刻《さっき》の波瀾から来た影響は彼にもう憑《の》り移っていた。彼は彼でそれを利用するよりほかに仕方がなかった。彼はすぐ「慰撫《いぶ》」の二字を思い出した。「慰撫に限る。女は慰撫さえすればどうにかなる」。彼は今得たばかりのこの新らしい断案を提《ひっ》さげて、お延に向った。
「行ってもいいんだよ。いいどころじゃない、実は行って貰《もら》いたいんだ。第一一人じゃ不自由だからね。世話をして貰うだけでも、その方が都合がいいにきまってるからね」
「ああ嬉《うれ》しい、じゃ行くわ」
「ところがだね。……」
お延は厭《いや》な顔をした。
「ところがどうしたの」
「ところがさ。宅《うち》はどうする気かね」
「宅は時がいるから好いわ」
「好いわって、そんな子供見たいな呑気《のんき》な事を云っちゃ困るよ」
「なぜ。どこが呑気なの。もし時だけで不用心なら誰か頼んで来るわ」
お延は続けざまに留守居《るすい》として適当な人の名を二三|挙《あ》げた。津田は拒《こば》めるだけそれを拒んだ。
「若い男は駄目《だめ》だよ。時と二人ぎり置く訳にゃ行かないからね」
お延は笑い出した。
「まさか。――間違なんか起りっこないわ、わずかの間ですもの」
「そうは行かないよ。けっしてそうは行かないよ」
津田は断乎《だんこ》たる態度を示すと共に、考える風もして見せた。
「誰か適当な人はないもんかね。手頃なお婆さんか何かあるとちょうど持って来いだがな」
藤井にも岡本にもその他の方面にも、そんな都合の好い手の空《あ》いた人は一人もなかった。
「まあよく考えて見るさ」
この辺で話を切り上げようとした津田は的《あて》が外《はず》れた。お延は掴《つか》んだ袖《そで》をなかなか放さなかった。
「考えてない時には、どうするの。もしお婆さんがいなければ、あたしはどうしても行っちゃ悪いの」
「悪いとは云やしないよ」
「だってお婆さんなんかいる訳がないじゃありませんか。考えないだってそのくらいな事は解《わか》ってますわ。それより行って悪いなら悪いと判然《はっきり》云ってちょうだいよ」
せっぱつまった津田はこの時不思議にまた好い云訳《いいわけ》を思いついた。
「そりゃいざとなれば留守番なんかどうでも構わないさ。しかし時一人を置いて行くにしたところで、まだ困る事があるんだ。おれは吉川の奥さんから旅費を貰《もら》うんだからね。他《ひと》の金を貰って夫婦連れで遊んで歩くように思われても、あんまりよくないじゃないか」
「そんなら吉川の奥さんからいただかないでも構わないわ。あの小切手があるから」
「そうすると今月分の払の方が差支えるよ」
「それは秀子さんの置いて行ったのがあるのよ」
津田はまた行きつまった。そうしてまた危《あやう》い血路《けつろ》を開いた。
「少し小林に貸してやらなくっちゃならないんだぜ」
「あんな人に」
「お前はあんな人にと云うがね、あれでも今度《こんだ》遠い朝鮮へ行くんだからね。可哀想《かわいそう》だよ。それにもう約束してしまったんだから、どうする訳にも行かないんだ」
お延は固《もと》より満足な顔をするはずがなかった。しかし津田はこれでどうかこうかその場だけを切り抜ける事ができた。
百五十二
後は話が存外楽に進行したので、ほどなく第二の妥協が成立した。小林に対する友誼《ゆうぎ》を満足させるため、かつはいったん約束した言責《げんせき》を果すため、津田はお延の貰《もら》って来た小切手の中《うち》から、その幾分を割《さ》いて朝鮮行の贐《はなむけ》として小林に贈る事にした。名義は固より貸すのであったが、相手に返す腹のない以上、それを予算に組み込んで今後の的にする訳には行かないので、結果はつまりやる事になったのである。もちろんそこへ行き着くまでにはお延にも多少の難色があった。小林のような横着《おうちゃく》な男に金銭を恵むのはおろか、ちゃんとした証書を入れさせて、一時の用を足してやる好意すら、彼女の胸のどの隅《すみ》からも出るはずはなかった。のみならず彼女はややともすると、強《し》いてそれを断行しようとする夫の裏側を覗《のぞ》き込むので、津田はそのたびに少なからず冷々《ひやひや》した。
「あんな人に何だってそんな親切を尽しておやりになるんだか、あたしにはまるで解らないわ」
こういう意味の言葉が二度も三度も彼女によって繰り返された。津田が人情|一点張《いってんばり》でそれを相手にする気色《けしき》を見せないと、彼女はもう一歩先の事
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