上に載せてある楓《かえで》の盆栽《ぼんさい》に落ちた。
「あれはどなたが持っていらしったんです」
 津田は失敗《しくじ》ったと思った。なぜ早く吉川夫人の来た事を自白してしまわなかったかと後悔した。彼が最初それを口にしなかったのは分別《ふんべつ》の結果であった。話すのに訳はなかったけれども、夫人と相談した事柄の内容が、お延に対する彼を自然臆病にしたので、気の咎《とが》める彼は、まあ遠慮しておく方が得策だろうと思案したのである。
 盆栽をふり返った彼が吉川夫人の名を云おうとして、ちょっと口籠《くちごも》った時、お延は機先を制した。
「吉川の奥さんがいらしったじゃありませんか」
 津田は思わず云った。
「どうして知ってるんだ」
「知ってますわ。そのくらいの事」
 お延の様子に注意していた津田はようやく度胸を取り返した。
「ああ来たよ。つまりお前の予言《よげん》があたった訳になるんだ」
「あたしは奥さんが電車に乗っていらしった事までちゃんと知ってるのよ」
 津田はまた驚ろいた。ことによると自動車が大通りに待っていたのかも知れないと思っただけで、彼は夫人の乗物にそれ以上細かい注意を払わなかった。
「お前どこかで会ったのかい」
「いいえ」
「じゃどうして知ってるんだ」
 お延は答える代りに訊《き》き返した。
「奥さんは何しにいらしったんです」
 津田は何気なく答えた。
「そりゃ今話そうと思ってたところだ。――しかし誤解しちゃ困るよ。小林はたしかに来たんだからね。最初に小林が来て、その後へ奥さんが来たんだ。だからちょうど入れ違になった訳だ」

        百四十七

 お延は夫より自分の方が急《せ》き込んでいる事に気がついた。この調子で乗《の》しかかって行ったところで、夫はもう圧《お》し潰《つぶ》されないという見切《みきり》をつけた時、彼女は自分の破綻《ぼろ》を出す前に身を翻《ひる》がえした。
「そう、そんならそれでもいいわ。小林さんが来たって来なくったって、あたしの知った事じゃないんだから。その代り吉川の奥さんの用事を話して聴《き》かしてちょうだい。無論ただのお見舞でない事はあたしにも判ってるけれども」
「といったところで、大した用事で来た訳でもないんだよ。そんなに期待していると、また聴いてから失望するかも知れないから、ちょっと断っとくがね」
「構いません、失望しても。ただありのままを伺いさえすれば、それで念晴《ねんばら》しになるんだから」
「本来が見舞で、用事はつけたりなんだよ、いいかね」
「いいわ、どっちでも」
 津田は夫人の齎《もたら》した温泉行の助言《じょごん》だけをごく淡泊《あっさ》り話した。お延にお延流の機略《きりゃく》がある通り、彼には彼相当の懸引《かけひき》があるので、都合の悪いところを巧みに省略した、誰の耳にも真卒《しんそつ》で合理的な説明がたやすく彼の口からお延の前に描き出された。彼女は表向《おもてむき》それに対して一言《いちごん》の非難を挟《さしは》さむ余地がなかった。
 ただ落ちつかないのは互の腹であった。お延はこの単純な説明を透《とお》して、その奥を覗《のぞ》き込もうとした。津田は飽《あ》くまでもそれを見せまいと覚悟した。極《きわ》めて平和な暗闘が度胸比べと技巧比べで演出されなければならなかった。しかし守る夫に弱点がある以上、攻める細君にそれだけの強味が加わるのは自然の理であった。だから二人の天賦《てんぷ》を度外において、ただ二人の位地《いち》関係から見ると、お延は戦かわない先にもう優者であった。正味《しょうみ》の曲直を標準にしても、競《せ》り合《あ》わない前に、彼女はすでに勝っていた。津田にはそういう自覚があった。お延にもこれとほぼ同じ意味で大体の見当《けんとう》がついていた。
 戦争は、この内部の事実を、そのまま表面へ追い出す事ができるかできないかで、一段落《いちだんらく》つかなければならない道理であった。津田さえ正直ならばこれほどたやすい勝負はない訳でもあった。しかしもし一点不正直なところが津田に残っているとすると、これほどまた落し悪《にく》い城はけっしてないという事にも帰着した。気の毒なお延は、否応《いやおう》なしに津田を追い出すだけの武器をまだ造り上げていなかった。向うに開門を逼《せま》るよりほかに何の手段も講じ得ない境遇にある現在の彼女は、結果から見てほとんど無能力者と択《えら》ぶところがなかった。
 なぜ心に勝っただけで、彼女は美くしく切り上げられないのだろうか。なぜ凱歌《がいか》を形の上にまで運び出さなければ気がすまないのだろうか。今の彼女にはそんな余裕がなかったのである。この勝負以上に大事なものがまだあったのである。第二第三の目的をまだ後《あと》に控えていた彼女は、ここを突き破らなければ、そ
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