彼が夫からはなはだ軽く見られているという事もよく呑み込んでいた。
「何しに来たんだろう」
 こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。
「何か御用でもおありだったの」
「ええあの外套《がいとう》を取りにいらっしゃいました」
 夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。
「外套? 誰の外套?」
 周密なお延はいろいろな問をお時にかけて、小林の意味を知ろうとした。けれどもそれは全くの徒労であった。お延が訊《き》けば訊くほど、お時が答えれば答えるほど、二人は迷宮に入るだけであった。しまいに自分達より小林の方が変だという事に気のついた二人は、声を出して笑った。津田の時々使うノンセンスと云う英語がお延の記憶に蘇生《よみが》えった。「小林とノンセンス」こう結びつけて考えると、お延はたまらなくおかしくなった。発作《ほっさ》のように込《こ》み上《あ》げてくる滑稽感《こっけいかん》に遠慮なく自己を託した彼女は、電車の中《うち》から持ち越して帰って来た、気がかりな宿題を、しばらく忘れていた。

        七十八

 お延はその晩京都にいる自分の両親へ宛《あ》てて手紙を書いた。一昨日《おととい》も昨日《きのう》も書きかけて止《や》めにしたその音信《たより》を、今日は是非《ぜひ》とも片づけてしまわなければならないと思い立った彼女の頭の中には、けっして両親の事ばかり働いているのではなかった。
 彼女は落ちつけなかった。不安から逃《のが》れようとする彼女には注意を一つ所に集める必要があった。先刻《さっき》からの疑問を解決したいという切な希望もあった。要するに京都へ手紙を書けば、ざわざわしがちな自分の心持を纏《まと》めて見る事ができそうに思えたのである。
 筆を取り上げた彼女は、例の通り時候の挨拶《あいさつ》から始めて、無沙汰《ぶさた》の申し訳までを器械的に書き了《おわ》った後で、しばらく考えた。京都へ何か書いてやる以上は、是非とも自分と津田との消息を的《まと》におかなければならなかった。それはどの親も新婚の娘から聞きたがる事項であった。どの娘もまた生家《せいか》の父母《ふぼ》に知らせなくってはすまない事項であった。それを差し措《お》いて里へ手紙をやる必要はほとんどあるまいとまで平生から信じていたお延は、筆を持ったまま、目下自分と津田との間柄《あいだがら》は、はたしてどんなところにどういう風に関係しているかを考えなければならなかった。彼女はありのままその物を父母《ふぼ》に報知する必要に逼《せま》られてはいなかった。けれどもある男に嫁《とつ》いだ一個の妻として、それを見極《みきわ》めておく要求を痛切に感じた。彼女はじっと考え込んだ。筆はそこでとまったぎり動かなくなった。その動かなくなった筆の事さえ忘れて、彼女は考えなければならなかった。しかも知ろうとすればするほど、確《しか》としたところは手に掴《つか》めなかった。
 手紙を書くまでの彼女は、ざわざわした散漫な不安に悩まされていた。手紙を書き始めた今の彼女は、ようやく一つ所に落ちついた。そうしてまた一つ所に落ちついた不安に悩まされ始めた。先刻《さっき》電車の中で、ちらちら眼先につき出したいろいろの影像《イメジ》は、みんなこの一点に向って集注するのだという事を、前後両様の比較から発見した彼女は、やっと自分を苦しめる不安の大根《おおね》に辿《たど》りついた。けれどもその大根の正体はどうしても分らなかった。勢い彼女は問題を未来に繰り越さなければならなかった。
「今日《こんにち》解決ができなければ、明日《みょうにち》解決するよりほかに仕方がない。明日解決ができなければ明後日《みょうごにち》解決するよりほかに仕方がない。明後日解決ができなければ……」
 これが彼女の論法《ロジック》であった。また希望であった。最後の決心であった。そうしてその決心を彼女はすでに継子の前で公言していたのである。
「誰でも構わない、自分のこうと思い込んだ人を飽《あ》くまで愛する事によって、その人に飽くまで自分を愛させなければやまない」
 彼女はここまで行く事を改めて心に誓った。ここまで行って落ちつく事を自分の意志に命令した。
 彼女の気分は少し軽《かろ》くなった。彼女は再び筆を動かした。なるべく父母《ふぼ》の喜こびそうな津田と自分の現況を憚《はばか》りなく書き連ねた。幸福そうに暮している二人の趣《おもむき》が、それからそれへと描出《びょうしゅつ》された。感激に充《み》ちた筆の穂先がさらさらと心持よく紙の上を走るのが彼女には面白かった。長い手紙がただ一息に出来上った。その一息がどのくらいの時間に相当しているかという事を、彼女はまるで知らなかった。
 しまいに筆
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