あたしの場合に使って下さらなかったの」
「使わないんじゃない、使えないのよ」
「だって岡目八目《おかめはちもく》って云うじゃありませんか。傍《はた》にいるあなたには、あたしより余計公平に分るはずだわ」
「じゃ継子さんは岡目八目で生涯の運命をきめてしまう気なの」
「そうじゃないけれども、参考にゃなるでしょう。ことに延子さんを信用しているあたしには」
 お延はまたしばらく黙っていた。それから少し前よりは改《あらたま》った態度で口を利《き》き出した。
「継子さん、あたし今あなたにお話ししたでしょう、あたしは幸福だって」
「ええ」
「なぜあたしが幸福だかあなた知ってて」
 お延はそこで句切《くぎり》をおいた。そうして継子の何かいう前に、すぐ後を継《つ》ぎ足《た》した。
「あたしが幸福なのは、ほかに何にも意味はないのよ。ただ自分の眼で自分の夫を択《えら》ぶ事ができたからよ。岡目八目でお嫁に行かなかったからよ。解って」
 継子は心細そうな顔をした。
「じゃあたしのようなものは、とても幸福になる望はないのね」
 お延は何とか云わなければならなかった。しかしすぐは何とも云えなかった。しまいに突然興奮したらしい急な調子が思わず彼女の口から迸《ほとば》しり出した。
「あるのよ、あるのよ。ただ愛するのよ、そうして愛させるのよ。そうさえすれば幸福になる見込はいくらでもあるのよ」
 こう云ったお延の頭の中には、自分の相手としての津田ばかりが鮮明に動いた。彼女は継子に話しかけながら、ほとんど三好《みよし》の影さえ思い浮べなかった。幸いそれを自分のためとのみ解釈した継子は、真《ま》ともにお延の調子を受けるほど感激しなかった。
「誰を」と云った彼女は少し呆《あき》れたようにお延の顔を見た。「昨夕《ゆうべ》お目にかかったあの方《かた》の事?」
「誰でも構わないのよ。ただ自分でこうと思い込んだ人を愛するのよ。そうして是非その人に自分を愛させるのよ」
 平生|包《つつ》み蔵《かく》しているお延の利かない気性《きしょう》が、しだいに鋒鋩《ほうぼう》を露《あら》わして来た。おとなしい継子はそのたびに少しずつ後《あと》へ退《さが》った。しまいに近寄りにくい二人の間の距離を悟った時、彼女は微《かす》かな溜息《ためいき》さえ吐《つ》いた。するとお延が忽然《こつぜん》また調子を張り上げた。
「あなたあたしの云う事を疑《うたぐ》っていらっしゃるの。本当よ。あたし嘘《うそ》なんか吐《つ》いちゃいないわ。本当よ。本当にあたし幸福なのよ。解ったでしょう」
 こう云って絶対に継子を首肯《うけが》わせた彼女は、後からまた独《ひと》り言《ごと》のように付け足した。
「誰だってそうよ。たとい今その人が幸福でないにしたところで、その人の料簡《りょうけん》一つで、未来は幸福になれるのよ。きっとなれるのよ。きっとなって見せるのよ。ねえ継子さん、そうでしょう」
 お延の腹の中を知らない継子は、この予言をただ漠然《ばくぜん》と自分の身の上に応用して考えなければならなかった。しかしいくら考えてもその意味はほとんど解らなかった。

        七十三

 その時廊下伝いに聞こえた忙がしい足音の主《ぬし》ががらりと室《へや》の入口を開けた。そうして学校から帰った百合子が、遠慮なくつかつか入って来た。彼女は重そうに肩から釣るした袋を取って、自分の机の上に置きながら、ただ一口「ただいま」と云って姉に挨拶《あいさつ》した。
 彼女の机を据《す》えた場所は、ちょうどもとお延の坐っていた右手の隅《すみ》であった。お延が津田へ片づくや否や、すぐその後《あと》へ入る事のできた彼女は、従姉《いとこ》のいなくなったのを、自分にとって大変な好都合《こうつごう》のように喜こんだ。お延はそれを知ってるので、わざと言葉をかけた。
「百合子さん、あたしまたお邪魔に上りましたよ。よくって」
 百合子は「よくいらっしゃいました」とも云わなかった。机の角へ右の足を載せて、少し穴の開《あ》きそうになった黒い靴足袋《くつたび》の親指の先を、手で撫《な》でていたが、足を畳の上へおろすと共に答えた。
「好いわ、来ても。追い出されたんでなければ」
「まあひどい事」と云って笑ったお延は、少し間《ま》をおいてから、また彼女を相手にした。
「百合子さん、もしあたしが津田を追い出されたら、少しは可哀相《かわいそう》だと思って下さるでしょう」
「ええ、そりゃ可哀相だと思って上げてもいいわ」
「そんなら、その時はまたこのお部屋へおいて下すって」
「そうね」
 百合子は少し考える様子をした。
「いいわ、おいて上げても。お姉さまがお嫁に行った後なら」
「いえ継子さんがお嫁にいらっしゃる前よ」
「前に追い出されるの? そいつは少し――まあ我慢してなるべく追い出され
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