田を見た。
「うん、あいつも可哀相《かわいそう》だけれども仕方がない。つまりこんなやくざな兄貴《あにき》をもったのが不仕合せだと思って、諦《あき》らめて貰うんだ」
「君がいなくったって、叔父や叔母がどうかしてくれるんだろう」
「まあそんな事になるよりほかに仕方がないからな。でなければこの結婚を断って、いつまでも下女代りに、先生の宅《うち》で使って貰うんだが、――そいつはまあどっちにしたって同じようなもんだろう。それより僕はまだ先生に気の毒な事があるんだ。もし行くとなると、先生から旅費を借りなければならないからね」
「向うじゃくれないのか」
「くれそうもないな」
「どうにかして出させたら好いだろう」
「さあ」
 一分ばかりの沈黙を破った時、彼はまた独《ひと》り言《ごと》のように云った。
「旅費は先生から借りる、外套《がいとう》は君から貰う、たった一人の妹は置《お》いてき堀《ぼり》にする、世話はないや」
 これがその晩小林の口から出た最後の台詞《せりふ》であった。二人はついに分れた。津田は後《あと》をも見ずにさっさと宅の方へ急いだ。

        三十八

 彼の門は例《いつも》の通り締《し》まっていた。彼は潜《くぐ》り戸《ど》へ手をかけた。ところが今夜はその潜り戸もまた開《あ》かなかった。立てつけの悪いせいかと思って、二三度やり直したあげく、力任せに戸を引いた時、ごとりという重苦しい※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》の抵抗力を裏側に聞いた彼はようやく断念した。
 彼はこの予想外の出来事に首を傾けて、しばらく戸の前に佇立《たたず》んだ。新らしい世帯を持ってから今日《こんにち》に至るまで、一度も外泊した覚《おぼえ》のない彼は、たまに夜遅く帰る事があっても、まだこうした経験には出会わなかったのである。
 今日《きょう》の彼は灯点《ひとも》し頃から早く宅へ帰りたがっていた。叔父の家で名ばかりの晩飯を食ったのも仕方なしに食ったのであった。進みもしない酒を少し飲んだのも小林に対する義理に過ぎなかった。夕方以後の彼は、むしろお延《のぶ》の面影《おもかげ》を心におきながら外で暮していた。その薄ら寒い外から帰って来た彼は、ちょうど暖かい家庭の灯火《ともしび》を慕って、それを目標《めあて》に足を運んだのと一般であった。彼の身体《からだ》が土塀《どべい》に行き当った馬のようにとまると共に、彼の期待も急に門前で喰いとめられなければならなかった。そうしてそれを喰いとめたものがお延であるか、偶然であるかは、今の彼にとってけっして小さな問題でなかった。
 彼は手を挙《あ》げて開《あ》かない潜《くぐ》り戸《ど》をとんとんと二つ敲《たた》いた。「ここを開けろ」というよりも「ここをなぜ締《し》めた」といって詰問するような音が、更《ふ》け渡《わた》りつつある往来の暗がりに響いた。すると内側ですぐ「はい」という返事がした。ほとんど反響に等しいくらい早く彼の鼓膜を打ったその声の主《ぬし》は、下女でなくてお延であった。急に静まり返った彼は戸の此方側《こちらがわ》で耳を澄ました。用のある時だけ使う事にしてある玄関先の電灯のスウィッチを捩《ひね》る音が明らかに聞こえた。格子《こうし》がすぐがらりと開いた。入口の開き戸がまだ閉《た》ててない事はたしかであった。
「どなた?」
 潜りのすぐ向う側まで来た足音が止《と》まると、お延はまずこう云って誰何《すいか》した。彼はなおの事|急《せ》き込んだ。
「早く開けろ、おれだ」
 お延は「あらッ」と叫んだ。
「あなただったの。御免遊《ごめんあそ》ばせ」
 ごとごと云わして※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》を外《はず》した後で夫を内へ入れた彼女はいつもより少し蒼《あお》い顔をしていた。彼はすぐ玄関から茶の間へ通り抜けた。
 茶の間はいつもの通りきちんと片づいていた。鉄瓶《てつびん》が約束通り鳴っていた。長火鉢《ながひばち》の前には、例によって厚いメリンスの座蒲団《ざぶとん》が、彼の帰りを待ち受けるごとくに敷かれてあった。お延の坐りつけたその向《むこう》には、彼女の座蒲団のほかに、女持の硯箱《すずりばこ》が出してあった。青貝で梅の花を散らした螺鈿《らでん》の葢《ふた》は傍《わき》へ取《と》り除《の》けられて、梨地《なしじ》の中に篏《は》め込《こ》んだ小さな硯がつやつやと濡《ぬ》れていた。持主が急いで座を立った証拠《しょうこ》に、細い筆の穂先が、巻紙の上へ墨を滲《にじ》ませて、七八寸書きかけた手紙の末を汚《けが》していた。
 戸締《とじま》りをして夫の後《あと》から入ってきたお延は寝巻《ねまき》の上へ平生着《ふだんぎ》の羽織を引っかけたままそこへぺたりと坐った。
「どうもすみません」

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