《ひも》の真中へ擬物《まがいもの》の翡翠《ひすい》を通したのだのはむしろ上等の部であった。ずっとひどいのは、まるで紙屑買としか見えなかった。腹掛《はらがけ》股引《ももひき》も一人|交《まじ》っていた。
「どうだ平民的でいいじゃないか」
 小林は津田の猪口《ちょく》へ酒を注《つ》ぎながらこう云った。その言葉を打ち消すような新調したての派出《はで》な彼の背広《せびろ》が、すぐことさららしく津田の眼に映ったが、彼自身はまるでそこに気がついていないらしかった。
「僕は君と違ってどうしても下等社界の方に同情があるんだからな」
 小林はあたかもそこに自分の兄弟分でも揃《そろ》っているような顔をして、一同を見廻した。
「見たまえ。彼らはみんな上流社会より好い人相をしているから」
 挨拶《あいさつ》をする勇気のなかった津田は、一同を見廻す代りに、かえって小林を熟視した。小林はすぐ譲歩した。
「少くとも陶然《とうぜん》としているだろう」
「上流社会だって陶然とするからな」
「だが陶然としかたが違うよ」
 津田は昂然《こうぜん》として両者の差違を訊《き》かなかった。それでも小林は少しも悄気《しょげ》ずに、ぐいぐい杯《さかずき》を重ねた。
「君はこういう人間を軽蔑《けいべつ》しているね。同情に価《あたい》しないものとして、始めから見くびっているんだ」
 こういうや否や、彼は津田の返事も待たずに、向うにいる牛乳配達見たような若ものに声をかけた。
「ねえ君。そうだろう」
 出し抜けに呼びかけられた若者は倔強《くっきょう》な頸筋《くびすじ》を曲げてちょっとこっちを見た。すると小林はすぐ杯《さかずき》をそっちの方へ出した。
「まあ君一杯飲みたまえ」
 若者はにやにやと笑った。不幸にして彼と小林との間には一間ほどの距離があった。立って杯を受けるほどの必要を感じなかった彼は、微笑するだけで動かなかった。しかしそれでも小林には満足らしかった。出した杯を引込めながら、自分の口へ持って行った時、彼はまた津田に云った。
「そらあの通りだ。上流社会のように高慢ちきな人間は一人もいやしない」

        三十五

 インヴァネスを着た小作りな男が、半纏《はんてん》の角刈《かくがり》と入れ違に這入《はい》って来て、二人から少し隔《へだた》った所に席を取った。廂《ひさし》を深くおろした鳥打《とりうち》を被《かぶ》ったまま、彼は一応ぐるりと四方《あたり》を見廻した後《あと》で、懐《ふところ》へ手を入れた。そうしてそこから取り出した薄い小型の帳面を開けて、読むのだか考えるのだか、じっと見つめていた。彼はいつまで経《た》っても、古ぼけたトンビを脱ごうとしなかった。帽子も頭へ載せたままであった。しかし帳面はそんなに長くひろげていなかった。大事そうにそれを懐へしまうと、今度は飲みながら、じろりじろりと他《ほか》の客を、見ないようにして見始めた。その相間《あいま》相間には、ちんちくりんな外套《がいとう》の羽根の下から手を出して、薄い鼻の下の髭《ひげ》を撫《な》でた。
 先刻《さっき》から気をつけるともなしにこの様子に気をつけていた二人は、自分達の視線が彼の視線に行き合った時、ぴたりと真向《まむき》になって互に顔を見合せた。小林は心持前へ乗り出した。
「何だか知ってるか」
 津田は元の通りの姿勢を崩《くず》さなかった。ほとんど返事に価《あたい》しないという口調で答えた。
「何だか知るもんか」
 小林はなお声を低くした。
「あいつは探偵《たんてい》だぜ」
 津田は答えなかった。相手より酒量の強い彼は、かえって相手ほど平生を失わなかった。黙って自分の前にある猪口《ちょく》を干した。小林はすぐそれへなみなみと注《つ》いだ。
「あの眼つきを見ろ」
 薄笑いをした津田はようやく口を開《ひら》いた。
「君見たいにむやみに上流社会の悪口をいうと、さっそく社会主義者と間違えられるぞ。少し用心しろ」
「社会主義者?」
 小林はわざと大きな声を出して、ことさらにインヴァネスの男の方を見た。
「笑わかせやがるな。こっちゃ、こう見えたって、善良なる細民の同情者だ。僕に比べると、乙に上品ぶって取り繕《つく》ろってる君達の方がよっぽどの悪者だ。どっちが警察へ引っ張られて然《しか》るべきだかよく考えて見ろ」
 鳥打の男が黙って下を向いているので、小林は津田に喰ってかかるよりほかに仕方がなかった。
「君はこうした土方や人足をてんから人間扱いにしないつもりかも知れないが」
 小林はまたこう云いかけて、そこいらを見廻したが、あいにくどこにも土方や人足はいなかった。それでも彼はいっこう構わずにしゃべりつづけた。
「彼らは君や探偵よりいくら人間らしい崇高な生地《きじ》をうぶのままもってるか解らないぜ。ただその人間らしい美し
前へ 次へ
全187ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング