いからね」
薄暗くなった室《へや》の中で、叔父の顔が一番薄暗く見えた。津田は立って電灯のスウィッチを捩《ねじ》った。
二十九
いつの間にか勝手口へ出て、お金さんと下女を相手に皿小鉢《さらこばち》の音を立てていた叔母がまた茶の間へ顔を出した。
「由雄さん久しぶりだから御飯を食べておいで」
津田は明日《あした》の治療を控えているので断って帰ろうとした。
「今日は小林といっしょに飯を食うはずになっているところへお前が来たのだから、ことによると御馳走《ごちそう》が足りないかも知れないが、まあつき合って行くさ」
叔父にこんな事を云われつけない津田は、妙な心持がして、また尻《しり》を据《す》えた。
「今日は何事かあるんですか」
「何ね、小林が今度――」
叔父はそれだけ云って、ちょっと小林の方を見た。小林は少し得意そうににやにやしていた。
「小林君どうかしたのか」
「何、君、なんでもないんだ。いずれきまったら君の宅《うち》へ行って詳《くわ》しい話をするがね」
「しかし僕は明日《あした》から入院するんだぜ」
「なに構わない、病院へ行くよ。見舞かたがた」
小林は追いかけて、その病院のある所だの、医者の名だのを、さも自分に必要な知識らしく訊《き》いた。医者の名が自分と同じ小林なので「はあそれじゃあの堀さんの」と云ったが急に黙ってしまった。堀というのは津田の妹婿の姓であった。彼がある特殊な病気のために、つい近所にいるその医者のもとへ通《かよ》ったのを小林はよく知っていたのである。
彼の詳《くわ》しい話というのを津田はちょっと聞いて見たい気がした。それは先刻《さっき》叔母の云ったお金さんの結婚問題らしくもあった。またそうでないらしくも見えた。この思わせぶりな小林の態度から、多少の好奇心を唆《そそ》られた津田は、それでも彼に病院へ遊びに来いとは明言しなかった。
津田が手術の準備だと云って、せっかく叔母の拵《こしら》えてくれた肉にも肴《さかな》にも、日頃大好な茸飯《たけめし》にも手をつけないので、さすがの叔母も気の毒がって、お金さんに頼んで、彼の口にする事のできる麺麭《パン》と牛乳を買って来させようとした。ねとねとしてむやみに歯の間に挟《はさ》まるここいらの麺麭に内心|辟易《へきえき》しながら、また贅沢《ぜいたく》だと云われるのが少し怖《こわ》いので、津田は
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