のぼ》られるように、作ってあるので、ついそこに見えている彼らの姿もなかなか庭先まで出るのに暇がかかった。それでも手代《てだい》はじっとして彼らを待っていなかった。たちまち津田を放《ほう》り出した現金な彼は、すぐ岡の裾《すそ》まで駈け出して行って、下から彼らを迎いに来たような挨拶《あいさつ》を与えた。
 津田はこの時始めて二人の顔をよく見た。女は昨夕《ゆうべ》艶《なま》めかしい姿をして、彼の浴室の戸を開けた人に違《ちがい》なかった。風呂場で彼を驚ろかした大きな髷《まげ》をいつの間にか崩《くず》して、尋常の束髪に結《ゆ》い更《か》えたので、彼はつい同じ人と気がつかずにいた。彼はさらに声を聴《き》いただけで顔を知らなかった伴《つれ》の男の方を、よそながらの初対面といった風に、女と眺め比べた。短かく刈り込んだ当世風の髭《ひげ》を鼻の下に生やしたその男は、なるほど風呂番の云った通り、どこかに商人らしい面影《おもかげ》を宿していた。津田は彼の顔を見るや否や、すぐお秀の夫を憶い出した。堀庄太郎、もう少し略して堀の庄さん、もっと詰《つ》めて当人のしばしば用いる堀庄《ほりしょう》という名前が、いかにも妹婿の様子を代表しているごとく、この男の名前もきっとその髭を虐殺するように町人染《ちょうにんじ》みていはしまいかと思われた。瞥見《べっけん》のついでに纏《まと》められた津田の想像はここにとどまらなかった。彼はもう一歩皮肉なところまで切り込んで、彼らがはたして本当の夫婦であるかないかをさえ疑問の中《うち》に置いた。したがって早起をして食前浴後の散歩に出たのだと明言する彼らは、津田にとっての違例な現象にほかならなかった。彼は楊枝で歯を磨《こす》りながらまだ元の所に立っていた。彼がよそ見をしているにもかかわらず、番頭を相手に二人のする談話はよく聴えた。
 女は番頭に訊《き》いた。
「今日は別館の奥さんはどうかなすって」
 番頭は答えた。
「いえ、手前はちっとも存じませんが、何か――」
「別に何って事もないんですけれどもね、いつでも朝風呂場でお目にかかるのに、今日はいらっしゃらなかったから」
「はあさようで――、ことによるとまだお休みかも知れません」
「そうかも知れないわね。だけどいつでも両方の時間がちゃんときまってるのよ、朝お風呂に行く時の」
「へえ、なるほど」
「それに今朝《けさ》ごいっしょ
前へ 次へ
全373ページ中350ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング