いという事をほかにして、なぜあんな心持になったものだろうかと、ただその原因を考えるだけでも、説明はできなかった。
 それはそれとして、なぜあの時清子の存在を忘れていたのだろうという疑問に推《お》し移ると、津田は我ながら不思議の感に打たれざるを得なかった。
「それほど自分は彼女に対して冷淡なのだろうか」
 彼は無論そうでないと信じていた。彼は食事の時、すでに清子のいる方角を、下女から教えて貰ったくらいであった。
「しかしお前はそれを念頭に置かなかったろう」
 彼は実際廊下をうろうろ歩行《ある》いているうちに、清子をどこかへふり落した。けれども自分のどこを歩いているか知らないものが、他《ひと》がどこにいるか知ろうはずはなかった。
「この見当《けんとう》だと心得てさえいたならば、ああ不意打《ふいうち》を食うんじゃなかったのに」
 こう考えた彼は、もう第一の機会を取り逃したような気がした。彼女が後を向いた様子、電気を消して上《あが》り口《くち》の案内を閉塞《へいそく》した所作《しょさ》、たちまち下女を呼び寄せるために鳴らした電鈴《ベル》の音、これらのものを綜合《そうごう》して考えると、すべてが警戒であった。注意であった。そうして絶縁であった。
 しかし彼女は驚ろいていた。彼よりも遥《はる》か余計に驚ろいていた。それは単に女だからとも云えた。彼には不意の裡《うち》に予期があり、彼女には突然の中《うち》にただ突然があるだけであったからとも云えた。けれども彼女の驚ろきはそれで説明し尽せているだろうか。彼女はもっと複雑な過去を覿面《てきめん》に感じてはいないだろうか。
 彼女は蒼《あお》くなった。彼女は硬くなった。津田はそこに望みを繋《つな》いだ。今の自分に都合《つごう》の好いようにそれを解釈してみた。それからまたその解釈を引繰返《ひっくりかえ》して、反対の側《がわ》からも眺めてみた。両方を眺め尽した次にはどっちが合理的だろうという批判をしなければならなくなった。その批判は材料不足のために、容易に纏《まと》まらなかった。纏ってもすぐ打ち崩《くず》された。一方に傾くと彼の自信が壊しに来た。他方に寄ると幻滅の半鐘が耳元に鳴り響いた。不思議にも彼の自信、卑下《ひげ》して用いる彼自身の言葉でいうと彼の己惚《おのぼれ》は、胸の中《うち》にあるような気がした。それを攻めに来る幻滅の半鐘はまた反
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