るだけであった。彼は首を縮めて外套《がいとう》の襟《えり》を立てた。
「夜中《やちゅう》はもうだいぶお寒くなりました」
御者台《ぎょしゃだい》を背中に背負《しょ》ってる手代は、位地《いち》の関係から少しも風を受けないので、この云《い》い草《ぐさ》は何となく小賢《こざか》しく津田の耳に響いた。
道は左右に田を控えているらしく思われた。そうして道と田の境目《さかいめ》には小河の流れが時々聞こえるように感ぜられた。田は両方とも狭く細く山で仕切られているような気もした。
津田は帽子と外套の襟で隠し切れない顔の一部分だけを風に曝《さら》して、寒さに抵抗でもするように黙想の態度を手代に示した。手代もその方が便利だと見えて、強《し》いて向うから口を利《き》こうともしなかった。
すると突然津田の心が揺《うご》いた。
「お客はたくさんいるかい」
「へえありがとう、お蔭《かげ》さまで」
「何人《なんにん》ぐらい」
何人とも答えなかった手代は、かえって弁解がましい返事をした。
「ただいまはあいにく季節が季節だもんでげすから、あんまりおいでがございません。寒い時は暮からお正月へかけまして、それから夏場になりますと、まあ七八|二月《ふたつき》ですな、繁昌《はんじょう》するのは。そんな時にゃ臨時のお客さまを御断りする事が、毎日のようにございます」
「じゃ今がちょうど閑《ひま》な時なんだね、そうか」
「へえ、どうぞごゆっくり」
「ありがとう」
「やっぱり御病気のためにわざわざおいでなんで」
「うんまあそうだ」
清子の事を訊《き》く目的で話し始めた津田は、ここへ来て急に痞《つか》えた。彼は気がさした。彼女の名前を口にするに堪えなかった。その上|後《あと》で面倒でも起ると悪いとも思い返した。手代から顔を離して馬車の背に倚《よ》りかかり直した彼は、再び沈黙の姿勢を回復した。
百七十二
馬車はやがて黒い大きな岩のようなものに突き当ろうとして、その裾《すそ》をぐるりと廻り込んだ。見ると反対の側《がわ》にも同じ岩の破片とも云うべきものが不行儀に路傍《みちばた》を塞《ふさ》いでいた。台上《だいうえ》から飛び下りた御者《ぎょしゃ》はすぐ馬の口を取った。
一方には空を凌《しの》ぐほどの高い樹《き》が聳《そび》えていた。星月夜《ほしづきよ》の光に映る物凄《ものすご》い影から判断す
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