そめると共に、相手を利用するのは今だという事に気がついた。
「僕が何で感謝なんぞ予期するものかね、君に対して。君こそ昔を忘れているんだよ。僕の方が昔のままでしている事を、君はみんな逆《さか》に解釈するから、交際がますます面倒になるんじゃないか。例《たと》えばだね、君がこの間僕の留守へ外套《がいとう》を取りに行って、そのついでに何か妻《さい》に云ったという事も――」
 津田はこれだけ云って暗《あん》に相手の様子を窺《うかが》った。しかし小林が下を向いているので、彼はまるでその心持の転化作用を忖度《そんたく》する事ができなかった。
「何も好んで友達の夫婦仲を割《さ》くような悪戯《いたずら》をしなくってもいい訳じゃないか」
「僕は君に関して何も云った覚《おぼえ》はないよ」
「しかし先刻《さっき》……」
「先刻は笑談《じょうだん》さ。君が冷嘲《ひやか》すから僕も冷嘲したんだ」
「どっちが冷嘲し出したんだか知らないが、そりゃどうでもいいよ。ただ本当のところを僕に云ってくれたって好さそうなものだがね」
「だから云ってるよ。何にも君に関して云った覚はないと何遍も繰り返して云ってるよ。細君を訊《き》き糺《ただ》して見れば解る事じゃないか」
「お延は……」
「何と云ったい」
「何とも云わないから困るんだ。云わないで腹の中《うち》で思っていられちゃ、弁解もできず説明もできず、困るのは僕だけだからね」
「僕は何にも云わないよ。ただ君がこれから夫らしくするかしないかが問題なんだ」
「僕は――」
 津田がこう云いかけた時、近寄る足音と共に新らしく入って来た人が、彼らの食卓の傍《そば》に立った。

        百六十二

 それが先刻大通りの角で、小林と立談《たちばなし》をしていた長髪の青年であるという事に気のついた時、津田はさらに驚ろかされた。けれどもその驚ろきのうちには、暗《あん》にこの男を待ち受けていた期待も交《まじ》っていた。明らさまな津田の感じを云えば、こんな人がここへ来るはずはないという断案と、もしここへ誰か来るとすれば、この人よりほかにあるまいという予想の矛盾であった。
 実を云うと、自働車の燭光《あかり》で照らされた時、彼の眸《ひとみ》の裏《うち》に映ったこの人の影像《イメジ》は津田にとって奇異なものであった。自分から小林、小林からこの青年、と順々に眼を移して行くうちには、
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