の頭に描き出されたのは、穏やかな瓦斯煖炉《ガスだんろ》を供えた品《ひん》の好い食堂であった。
 大きなブロックの片隅に、形容した言葉でいうと、むしろひっそり構えているその食堂は、大して広いものではなかった。津田がそこを知り出したのもつい近頃であった。長い間|仏蘭西《フランス》とかに公使をしていた人の料理番が開いた店だから旨《うま》いのだと友人に教えられたのが原《もと》で、四五遍食いに来た因縁《いんねん》を措《お》くと、小林をそこへ招き寄せる理由は他に何にもなかった。
 彼は容赦《ようしゃ》なく扉《とびら》を押して内へ入った。そうしてそこに案のごとく少し手持無沙汰《てもちぶさた》ででもあるような風をして、真面目《まじめ》な顔を夕刊か何かの前に向けている小林を見出した。

        百五十六

 小林は眼を上げてちょっと入口の方を見たが、すぐその眼を新聞の上に落してしまった。津田は仕方なしに無言のまま、彼の坐《すわ》っている食卓《テーブル》の傍《そば》まで近寄って行ってこっちから声をかけた。
「失敬。少し遅くなった。よっぽど待たしたかね」
 小林はようやく新聞を畳んだ。
「君時計をもってるだろう」
 津田はわざと時計を出さなかった。小林は振り返って正面の壁の上に掛っている大きな柱時計を見た。針は指定の時間より四十分ほど先へ出ていた。
「実は僕も今来たばかりのところなんだ」
 二人は向い合って席についた。周囲には二組ばかりの客がいるだけなので、そうしてその二組は双方ともに相当の扮装《みなり》をした婦人づれなので、室内は存外静かであった。ことに一間ほど隔《へだ》てて、二人の横に置かれた瓦斯煖炉《ガスストーブ》の火の色が、白いものの目立つ清楚《せいそ》な室《へや》の空気に、恰好《かっこう》な温《ぬく》もりを与えた。
 津田の心には、変な対照が描き出された。この間の晩小林のお蔭《かげ》で無理に引っ張り込まれた怪しげな酒場《バー》の光景がありありと彼の眼に浮んだ。その時の相手を今度は自分の方でここへ案内したという事が、彼には一種の意味で得意であった。
「どうだね、ここの宅《うち》は。ちょっと綺麗《きれい》で心持が好いじゃないか」
 小林は気がついたように四辺《ぐるり》を見廻した。
「うん。ここには探偵はいないようだね」
「その代り美くしい人がいるだろう」
 小林は急に大きな
前へ 次へ
全373ページ中299ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング