ひと》に洩《も》らした事のない事実に違いなかった。だから事実と云い条、その実は一個の秘密でもあった。それならばなぜ彼がこの明白な事実をわざと秘密に附していたのだろう。簡単に云えば、彼はなるべく己《おの》れを尊《とうと》く考がえたかったからである。愛の戦争という眼で眺めた彼らの夫婦生活において、いつでも敗者の位地《いち》に立った彼には、彼でまた相当の慢心があった。ところがお延のために征服される彼はやむをえず征服されるので、心《しん》から帰服するのではなかった。堂々と愛の擒《とりこ》になるのではなくって、常に騙《だま》し打《うち》に会っているのであった。お延が夫の慢心を挫《くじ》くところに気がつかないで、ただ彼を征服する点においてのみ愛の満足を感ずる通りに、負けるのが嫌《きらい》な津田も、残念だとは思いながら、力及ばず組み敷かれるたびに降参するのであった。この特殊な関係を、一夜《いちや》の苦説《くぜつ》が逆《さか》にしてくれた時、彼のお延に対する考えは変るのが至当であった。彼は今までこれほど猛烈に、また真正面に、上手《うわて》を引くように見えて、実は偽りのない下手《したで》に出たお延という女を見た例《ためし》がなかった。弱点を抱《だ》いて逃げまわりながら彼は始めてお延に勝つ事ができた。結果は明暸《めいりょう》であった。彼はようやく彼女を軽蔑《けいべつ》する事ができた。同時に以前よりは余計に、彼女に同情を寄せる事ができた。
 お延にはまたお延で波瀾後《はらんご》の変化が起りつつあった。今までかつてこういう態度で夫に向った事のない彼女は、一気に津田の弱点を衝《つ》く方に心を奪われ過ぎたため、ついぞ露《あら》わした事のない自分の弱点を、かえって夫に示してしまったのが、何より先に残念の種になった。夫に愛されたいばかりの彼女には平常からわが腕に依頼する信念があった。自分は自分の見識を立て通して見せるという覚悟があった。もちろんその見識は複雑とは云えなかった。夫の愛が自分の存在上、いかに必要であろうとも、頭を下げて憐《あわれ》みを乞うような見苦しい真似《まね》はできないという意地に過ぎなかった。もし夫が自分の思う通り自分を愛さないならば、腕の力で自由にして見せるという堅い決心であった。のべつにこの決心を実行して来た彼女は、つまりのべつに緊張していると同じ事であった。そうしてその緊張
前へ 次へ
全373ページ中287ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング