外へ出かかった時、彼はまた後《うしろ》から呼びとめられた。
「おい君、お父さんは近頃どうしたね。相変らずお丈夫かね」
ふり返った津田の鼻を葉巻の好い香《におい》が急に冒《おか》した。
「へえ、ありがとう、お蔭《かげ》さまで達者でございます」
「大方詩でも作って遊んでるんだろう。気楽で好いね。昨夕《ゆうべ》も岡本と或所で落ち合って、君のお父さんの噂《うわさ》をしたがね。岡本も羨《うらや》ましがってたよ。あの男も近頃少し閑暇《ひま》になったようなもののやっぱり、君のお父さんのようにゃ行かないからね」
津田は自分の父がけっしてこれらの人から羨《うら》やましがられているとは思わなかった。もし父の境遇に彼らをおいてやろうというものがあったなら、彼らは苦笑して、少なくとももう十年はこのままにしておいてくれと頼むだろうと考えた。それは固《もと》より自分の性格から割り出した津田の観察に過ぎなかった。同時に彼らの性格から割り出した津田の観察でもあった。
「父はもう時勢後《じせいおく》れですから、ああでもして暮らしているよりほかに仕方がございません」
津田はいつの間にかまた室の中に戻って、元通りの位置に立っていた。
「どうして時勢後れどころじゃない、つまり時勢に先だっているから、ああした生活が送れるんだ」
津田は挨拶《あいさつ》に窮した。向うの口の重宝《ちょうほう》なのに比べて、自分の口の不重宝《ぶちょうほう》さが荷になった。彼は手持無沙汰《てもちぶさた》の気味で、緩《ゆる》く消えて行く葉巻の煙りを見つめた。
「お父さんに心配を掛けちゃいけないよ。君の事は何でもこっちに分ってるから、もし悪い事があると、僕からお父さんの方へ知らせてやるぜ、好いかね」
津田はこの子供に対するような、笑談《じょうだん》とも訓戒とも見分《みわけ》のつかない言葉を、苦笑しながら聞いた後で、ようやく室外に逃《のが》れ出《で》た。
十七
その日の帰りがけに津田は途中で電車を下りて、停留所から賑《にぎ》やかな通りを少し行った所で横へ曲った。質屋の暖簾《のれん》だの碁会所《ごかいしょ》の看板だの鳶《とび》の頭《かしら》のいそうな格子戸作《こうしどづく》りだのを左右に見ながら、彼は彎曲《わんきょく》した小路《こうじ》の中ほどにある擦硝子張《すりガラスばり》の扉を外から押して内へ入った。扉の
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