事を発見した時に、お延は口ではいはい向うのいう通りを首肯《うけが》いながら、腹の中では、じれったがった。「そんな言葉の先でなく、裸でいらっしゃい、実力で相撲《すもう》を取りますから」と云いたくなった彼女は、どうしたらこの議論家を裸にする事ができるだろうと思案した。
 やがてお延の胸に分別《ふんべつ》がついた。分別とはほかでもなかった。この問題を活《い》かすためには、お秀を犠牲にするか、または自分を犠牲にするか、どっちかにしなければ、とうてい思う壺《つぼ》に入って来る訳がないという事であった。相手を犠牲にするのに困難はなかった。ただどこからか向うの弱点を突ッ付きさえすれば、それで事は足りた。その弱点が事実であろうとも仮説的であろうとも、それはお延の意とするところではなかった。単に自然の反応を目的にして試みる刺戟《しげき》に対して、真偽の吟味《ぎんみ》などは、要《い》らざる斟酌《しんしゃく》であった。しかしそこにはまたそれ相応の危険もあった。お秀は怒《おこ》るに違《ちがい》なかった。ところがお秀を怒らせるという事は、お延の目的であって、そうして目的でなかった。だからお延は迷わざるを得なかった。
 最後に彼女はある時機を掴《つか》んで起《た》った。そうしてその起った時には、もう自分を犠牲にする方に決心していた。

        百二十七

「そう云われると、何と云っていいか解《わか》らなくなるわね、あたしなんか。津田に愛されているんだか、愛されていないんだか、自分じゃまるで夢中でいるんですもの。秀子さんは仕合せね、そこへ行くと。最初から御自分にちゃんとした保証がついていらっしゃるんだから」
 お秀の器量望《きりょうのぞ》みで貰《もら》われた事は、津田といっしょにならない前から、お延に知れていた。それは一般の女、ことにお延のような女にとっては、羨《うら》やましい事実に違《ちがい》なかった。始めて津田からその話を聴《き》かされた時、お延はお秀を見ない先に、まず彼女に対する軽い嫉妬《しっと》を感じた。中味の薄っぺらな事実に過ぎなかったという意味があとで解った時には、淡い冷笑のうちに、復讐《ふくしゅう》をしたような快感さえ覚えた。それより以後、愛という問題について、お秀に対するお延の態度は、いつも軽蔑《けいべつ》であった。それを表向《おもてむき》さも嬉《うれ》しい消息ででもある
前へ 次へ
全373ページ中239ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング