れを彼の口からここで繰り返させさえすれば、自分の答は「うん」だろうが、「いいえ」だろうが、同じ事であった。しかしどっちが成功するかそこはとっさの際にきめる訳に行かなかった。ところがその態度が意外な意味になって小林に反響した。
「奥さんが怒って来たな。きっとそんな事だろうと、僕も思ってたよ」
容易に手がかりを得た津田は、すぐそれに縋《すが》りついた。
「君があんまり苛《いじ》めるからさ」
「いや苛めやしないよ。ただ少し調戯《からか》い過ぎたんだ、可哀想《かわいそう》に。泣きゃしなかったかね」
津田は少し驚ろいた。
「泣かせるような事でも云ったのかい」
「なにどうせ僕の云う事だから出鱈目《でたらめ》さ。つまり奥さんは、岡本さん見たいな上流の家庭で育ったので、天下に僕のような愚劣な人間が存在している事をまだ知らないんだ。それでちょっとした事まで苦《く》にするんだろうよ。あんな馬鹿に取り合うなと君が平生から教えておきさえすればそれでいいんだ」
「そう教えている事はいるよ」と津田も負けずにやり返した。小林はハハと笑った。
「まだ少し訓練が足りないんじゃないか」
津田は言葉を改めた。
「しかし君はいったいどんな事を云って、彼奴《あいつ》に調戯ったのかい」
「そりゃもうお延さんから聴《き》いたろう」
「いいや聴かない」
二人は顔を見合せた。互いの胸を忖度《そんたく》しようとする試みが、同時にそこに現われた。
百十七
津田が小林に本音《ほんね》を吹かせようとするところには、ある特別の意味があった。彼はお延の性質をその著るしい断面においてよく承知していた。お秀と正反対な彼女は、飽《あ》くまで素直《すなお》に、飽くまで閑雅《しとやか》な態度を、絶えず彼の前に示す事を忘れないと共に、どうしてもまた彼の自由にならない点を、同様な程度でちゃんともっていた。彼女の才は一つであった。けれどもその応用は両面に亘《わた》っていた。これは夫に知らせてならないと思う事、または隠しておく方が便宜《べんぎ》だときめた事、そういう場合になると、彼女は全く津田の手にあまる細君であった。彼女が柔順であればあるほど、津田は彼女から何にも掘り出す事ができなかった。彼女と小林の間に昨日《きのう》どんなやりとりが起ったか、それはお秀の騒ぎで委細を訊《き》く暇もないうちに、時間が経《た》ってし
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