になって、彼の頭に現われて来るはずがなかった。
 お延はなかなか来なかった。お延以上に待たれる吉川夫人は固《もと》より姿を見せなかった。津田は面白くなかった。先刻《さっき》から近くで誰かがやっている、彼の最も嫌《きらい》な謡《うたい》の声が、不快に彼の耳を刺戟《しげき》した。彼の記憶にある謡曲指南《ようきょくしなん》という細長い看板が急に思い出された。それは洗濯屋の筋向うに当る二階建の家《うち》であった。二階が稽古《けいこ》をする座敷にでもなっていると見えて、距離の割に声の方がむやみに大きく響いた。他《ひと》が勝手にやっているものを止《や》めさせる権利をどこにも見出《みいだ》し得ない彼は、彼の不平をどうする事もできなかった。彼はただ早く退院したいと思うだけであった。
 柳の木の後《うしろ》にある赤い煉瓦造《れんがづく》りの倉に、山形《やまがた》の下に一を引いた屋号のような紋が付いていて、その左右に何のためとも解《わか》らない、大きな折釘《おれくぎ》に似たものが壁の中から突き出している所を、津田が見るとも見ないとも片のつかない眼で、ぼんやり眺めていた時、遠慮のない足音が急に聞こえて、誰かが階子段《はしごだん》を、どしどし上《のぼ》って来た。津田はおやと思った。この足音の調子から、その主がもう七分通り、彼の頭の中では推定されていた。
 彼の予覚はすぐ事実になった。彼が室《へや》の入口に眼を転ずると、ほとんどおッつかッつに、小林は貰い立ての外套《がいとう》を着たままつかつか入って来た。
「どうかね」
 彼はすぐ胡坐《あぐら》をかいた。津田はむしろ苦しそうな笑いを挨拶《あいさつ》の代りにした。何しに来たんだという心持が、顔を見ると共にもう起っていた。
「これだ」と彼は外套の袖《そで》を津田に突きつけるようにして見せた。
「ありがとう、お蔭《かげ》でこの冬も生きて行かれるよ」
 小林はお延の前で云ったと同じ言葉を津田の前で繰り返した。しかし津田はお延からそれを聴《き》かされていなかったので、別に皮肉とも思わなかった。
「奥さんが来たろう」
 小林はまたこう訊《き》いた。
「来たさ。来るのは当り前じゃないか」
「何か云ってたろう」
 津田は「うん」と答えようか、「いいや」と答えようかと思って、少し躊躇《ちゅうちょ》した。彼は小林がどんな事をお延に話したか、それを知りたかった。そ
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