ぎ》をかけて、是非その看護婦を殴《なぐ》らせろと、医局へ逼《せま》った人があったというその話は、津田から見るといかにも滑稽《こっけい》であった。こういう性質《たち》の人と正反対に生みつけられた彼は、そこに馬鹿らしさ以外の何物をも見出《みいだ》す事ができなかった。平たく云い直すと、彼は向うの短所ばかりに気を奪《と》られた。そうしてその裏側へ暗《あん》に自分の長所を点綴《てんてつ》して喜んだ。だから自分の短所にはけっして思い及ばなかったと同一の結果に帰着した。
医者の診察が済んだ後で、彼は下らない病気のために、一週間も一つ所に括《くく》りつけられなければならない現在の自分を悲観したくなった。気のせいか彼にはその現在が大変貴重に見えた。もう少し治療を後廻しにすれば好かったという後悔さえ腹の中には起った。
彼はまた吉川夫人の事を考え始めた。どうかして彼女をここへ呼びつける工夫はあるまいかと思うよりも、どうかして彼女がここへ来てくれればいいがと思う方に、心の調子がだんだん移って行った。自分を見破られるという意味で、平生からお延の直覚を悪く評価していたにもかかわらず、例外なこの場合だけには、それがあたって欲しいような気もどこかでした。
彼はお延の置いて行った書物の中《うち》から、その一冊を抽《ぬ》いた。岡本の所蔵にかかるだけあるなと首肯《うな》ずかせるような趣《おもむき》がそこここに見えた。不幸にして彼は諧謔《ヒューモア》を解する事を知らなかった。中に書いてある活字の意味は、頭に通じても胸にはそれほど応《こた》えなかった。頭にさえ呑《の》み込めないのも続々出て来た。責任のない彼は、自分に手頃なのを見つけようとして、どしどし飛ばして行った。すると偶然|下《しも》のようなのが彼の眼に触れた。
「娘の父が青年に向って、あなたは私《わたし》の娘を愛しておいでなのですかと訊《き》いたら、青年は、愛するの愛さないのっていう段じゃありません、お嬢さんのためなら死のうとまで思っているんです。あの懐《なつ》かしい眼で、優しい眼遣《めづか》いをただの一度でもしていただく事ができるなら、僕はもうそれだけで死ぬのです。すぐあの二百尺もあろうという崖《がけ》の上から、岩の上へ落ちて、めちゃくちゃな血だらけな塊《かたま》りになって御覧に入れます。と答えた。娘の父は首を掉《ふ》って、実を云うと、私も少
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