がいい」
「ええ。――どっちでも、とにかく、それが兄さんの変った証拠じゃありませんか」
「馬鹿を云うな」
「いいえ、証拠よ。たしかな証拠よ。兄さんはそれだけ嫂さんを恐れていらっしゃるんです」
津田はふと眼を転じた。そうして枕に頭を載せたまま、下からお秀の顔を覗《のぞ》き込むようにして見た。それから好い恰好《かっこう》をした鼻柱に冷笑の皺《しわ》を寄せた。この余裕がお秀には全く突然であった。もう一息《ひといき》で懺悔《ざんげ》の深谷《しんこく》へ真《ま》ッ逆《さか》さまに突き落すつもりでいた彼女は、まだ兄の後《うしろ》に平坦《へいたん》な地面が残っているのではなかろうかという疑いを始めて起した。しかし彼女は行けるところまで行かなければならなかった。
「兄さんはついこの間まで小林さんなんかを、まるで鼻の先であしらっていらっしったじゃありませんか。何を云っても取り合わなかったじゃありませんか。それを今日に限ってなぜそんなに怖《こわ》がるんです。たかが小林なんかを怖がるようになったのは、その相手が嫂さんだからじゃありませんか」
「そんならそれでいいさ。僕がいくら小林を怖がったって、お父さんやお母さんに対する不義理になる訳でもなかろう」
「だからあたしの口を出す幕じゃないとおっしゃるの」
「まあその見当《けんとう》だろうね」
お秀は赫《かっ》とした。同時に一筋の稲妻《いなずま》が彼女の頭の中を走った。
百二
「解《わか》りました」
お秀は鋭どい声でこう云《い》い放《はな》った。しかし彼女の改まった切口上《きりこうじょう》は外面上何の変化も津田の上に持ち来さなかった。彼はもう彼女の挑戦《ちょうせん》に応ずる気色《けしき》を見せなかった。
「解りましたよ、兄さん」
お秀は津田の肩を揺《ゆす》ぶるような具合に、再び前の言葉を繰返した。津田は仕方なしにまた口を開いた。
「何が」
「なぜ嫂《ねえ》さんに対して兄さんがそんなに気をおいていらっしゃるかという意味がです」
津田の頭に一種の好奇心が起った。
「云って御覧」
「云う必要はないんです。ただ私にその意味が解ったという事だけを承知していただけばたくさんなんです」
「そんならわざわざ断る必要はないよ。黙って独《ひと》りで解ったと思っているがいい」
「いいえよくないんです。兄さんは私を妹と見傚《みな》していら
前へ
次へ
全373ページ中186ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング