、そこは彼女にもまるで解らなかった。
「いつだって構やしないんでしょう。繰合《くりあわ》せさえつけば」
彼女はさも無雑作《むぞうさ》な口ぶりで津田に好意を表してくれた。
「無論繰合せはつくようにしておいたんですが……」
「じゃ好いじゃありませんか。明日《あした》から休んだって」
「でもちょっと伺った上でないと」
「じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。心配する事も何にもないわ」
細君は快よく引き受けた。あたかも自分が他《ひと》のために働らいてやる用事がまた一つできたのを喜こぶようにも見えた。津田はこの機嫌《きげん》のいい、そして同情のある夫人を自分の前に見るのが嬉《うれ》しかった。自分の態度なり所作《しょさ》なりが原動力になって、相手をそうさせたのだという自覚が彼をなおさら嬉しくした。
彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのを好《す》いていた。それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事ができたからである。そうしてその親しみをよくよく立ち割って見ると、やはり男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。例えて云うと、或人が茶屋女などに突然背中を打《ど》やされた刹那《せつな》に受ける快感に近い或物であった。
同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己を裕《ゆたか》にもっていた。彼はその自己をわざと押《お》し蔵《かく》して細君の前に立つ用意を忘れなかった。かくして彼は心置なく細君から嬲《なぶ》られる時の軽い感じを前に受けながら、背後はいつでも自分の築いた厚い重い壁に倚《よ》りかかっていた。
彼が用事を済まして椅子《いす》を離れようとした時、細君は突然口を開《ひら》いた。
「また子供のように泣いたり唸《うな》ったりしちゃいけませんよ。大きな体《なり》をして」
津田は思わず去年の苦痛を思い出した。
「あの時は実際弱りました。唐紙《からかみ》の開閉《あけたて》が局部に応《こた》えて、そのたんびにぴくんぴくんと身体《からだ》全体が寝床《ねどこ》の上で飛び上ったくらいなんですから。しかし今度《こんだ》は大丈夫です」
「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまり口幅《くちはば》ったい事をおっしゃると、見届けに行きますよ」
「あなたに見舞《みまい》に来ていただけるような所じゃあ
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