事を肯定する気は毫《ごう》もなかった。再び顔を上げた時、彼は沈黙の眼を細君の方に向けた。その眼が無言の裡《うち》に何を語っているか、細君には解らなかった。
「御気に障《さわ》ったら堪忍《かんにん》してちょうだい。そう云うつもりで云ったんじゃないんだから」
「いえ何とも思っちゃいません」
「本当に?」
「本当に何とも思っちゃいません」
「それでやっと安心した」
 細君はすぐ元の軽い調子を恢復《かいふく》した。
「あなたまだどこか子供子供したところがあるのね、こうして話していると。だから男は損なようでやっぱり得《とく》なのね。あなたはそら今おっしゃった通りちょうどでしょう、それからお延さんが今年三になるんだから、年歯でいうと、よっぽど違うんだけれども、様子からいうと、かえって奥さんの方が更《ふ》けてるくらいよ。更けてると云っちゃ失礼に当るかも知れないけれども、何と云ったらいいでしょうね、まあ……」
 細君は津田を前に置いてお延の様子を形容する言葉を思案するらしかった。津田は多少の好奇心をもって、それを待ち受けた。
「まあ老成《ろうせい》よ。本当に怜悧《りこう》な方《かた》ね、あんな怜悧な方は滅多《めった》に見た事がない。大事にして御上げなさいよ」
 細君の語勢からいうと、「大事にしてやれ」という代りに、「よく気をつけろ」と云っても大した変りはなかった。

        十二

 その時二人の頭の上に下《さが》っている電灯がぱっと点《つ》いた。先刻《さっき》取次に出た書生がそっと室《へや》の中へ入って来て、音のしないようにブラインドを卸《お》ろして、また無言のまま出て行った。瓦斯煖炉《ガスだんろ》の色のだんだん濃くなって来るのを、最前《さいぜん》から注意して見ていた津田は、黙って書生の後姿を目送《もくそう》した。もう好い加減に話を切り上げて帰らなければならないという気がした。彼は自分の前に置かれた紅茶茶碗の底に冷たく浮いている檸檬《レモン》の一切《ひときれ》を除《よ》けるようにしてその余りを残りなく啜《すす》った。そうしてそれを相図《あいず》に、自分の持って来た用事を細君に打ち明けた。用事は固《もと》より単簡《たんかん》であった。けれども細君の諾否《だくひ》だけですぐ決定されべき性質のものではなかった。彼の自由に使用したいという一週間前後の時日を、月のどこへ置いていいか
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