り返した。
「奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ」
「あっても宜《よろ》しいじゃございませんか」
「いや、実はあなたの知りたいと思ってる事がまだたくさんあるんですよ」
「あっても構いません」
「じゃ、あなたの知らなければならない事がまだたくさんあるんだと云い直したらどうです。それでも構いませんか」
「ええ、構いません」
八十五
小林の顔には皮肉の渦《うず》が漲《みなぎ》った。進んでも退《しりぞ》いてもこっちのものだという勝利の表情がありありと見えた。彼はその瞬間の得意を永久に引き延ばして、いつまでも自分で眺め暮したいような素振《そぶり》さえ示した。
「何という陋劣《ろうれつ》な男だろう」
お延は腹の中でこう思った。そうしてしばらくの間じっと彼と睨《にら》めっ競《くら》をしていた。すると小林の方からまた口を利《き》き出した。
「奥さん津田君が変った例証として、是非あなたに聴《き》かせなければならない事があるんですが、あんまりおびえていらっしゃるようだから、それは後廻しにして、その反対の方、すなわち津田君がちっとも変らないところを少し御参考までにお話しておきますよ。これはいやでも私《わたし》の方で是非奥さんに聴いていただきたいのです。――どうです聴いて下さいますか」
お延は冷淡に「どうともあなたの御随意に」と答えた。小林は「ありがたい」と云って笑った。
「僕は昔から津田君に軽蔑《けいべつ》されていました。今でも津田君に軽蔑されています。先刻《さっき》からいう通り津田君は大変変りましたよ。けれども津田君の僕に対する軽蔑だけは昔も今も同様なのです。毫《ごう》も変らないのです。これだけはいくら怜悧《りこう》な奥さんの感化力でもどうする訳にも行かないと見えますね。もっともあなた方から見たら、それが理の当然なんでしょうけれどもね」
小林はそこで言葉を切って、少し苦しそうなお延の笑い顔に見入った。それからまた続けた。
「いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。誰にでも軽蔑されている人間なんです。下らない女にまで軽蔑されているんです。有体《ありてい》に云えば世の中全体が寄ってたかって僕を軽蔑しているん
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