のは、下女でも書生でもなく、ちょうどその時彼女と同じように京都の家《うち》へ来ていた由雄であった。
二人は固《もと》よりそれまでに顔を合せた事がなかった。お延の方ではただ噂《うわさ》で由雄を知っているだけであった。近頃家へ帰って来たとか、または帰っているとかいう話は、その朝始めて父から聞いたぐらいのものであった。それも父に新らしく本を借りようという気が起って、彼がそのための手紙を書いた。事のついでに過ぎなかった。
由雄はその時お延から帙入《ちついり》の唐本《とうほん》を受取って、なぜだか、明詩別裁《みんしべっさい》という厳《いか》めしい字で書いた標題を長らくの間見つめていた。その見つめている彼を、お延はまたいつまでも眺めていなければならなかった。すると彼が急に顔を上げたので、お延が今まで熱心に彼を見ていた事がすぐ発覚してしまった。しかし由雄の返事を待ち受ける位地に立たせられたお延から見れば、これもやむをえない所作《しょさ》に違なかった。顔を上げた由雄は、「父はあいにく今留守ですが」と云った。お延はすぐ帰ろうとした。すると由雄がまた呼びとめて、自分の父|宛《あて》の手紙を、お延の見ている前で、断りも何にもせずに、開封した。この平気な挙動がまたお延の注意を惹《ひ》いた。彼の遣口《やりくち》は不作法《ぶさほう》であった。けれども果断に違なかった。彼女はどうしても彼を粗野《がさつ》とか乱暴とかいう言葉で評する気にならなかった。
手紙を一目見た由雄は、お延を玄関先に待たせたまま、入用《いりよう》の書物を探しに奥へ這入《はい》った。しかし不幸にして父の借ろうとする漢籍は彼の眼のつく所になかった。十分ばかりしてまた出て来た彼は、お延を空《むな》しく引きとめておいた詫《わび》を述べた。指定《してい》の本はちょっと見つからないから、彼の父の帰り次第、こっちから届けるようにすると云った。お延は失礼だというので、それを断った。自分がまた明日《あした》にでも取りに来るからと約束して宅《うち》へ帰った。
するとその日の午後由雄が向うから望みの本をわざわざ持って来てくれた。偶然にもお延がその取次に出た。二人はまた顔を見合せた。そうして今度はすぐ両方で両方を認め合った。由雄の手に提《さ》げた書物は、今朝お延の返しに行ったものに比べると、約三倍の量があった。彼はそれを更紗《さらさ》の風呂敷
前へ
次へ
全373ページ中142ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング