上《のぼ》りがけだったので、擦《す》れ違《ちがい》に叮嚀《ていねい》な御辞儀《おじぎ》をしたぎり、彼は何にも云わなかった。もう午飯《ひるめし》に間もないという頃、彼はそっと吉川の室《へや》の戸を敲《たた》いて、遠慮がちな顔を半分ほど中へ出した。その時吉川は煙草《たばこ》を吹かしながら客と話をしていた。その客は無論彼の知らない人であった。彼が戸を半分ほど開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。そうして二人ともこっちを向いた。
「何か用かい」
 吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。
「ちょっと……」
「君自身の用事かい」
 津田は固《もと》より表向の用事で、この室へ始終《しじゅう》出入《しゅつにゅう》すべき人ではなかった。跋《ばつ》の悪そうな顔つきをした彼は答えた。
「そうです。ちょっと……」
「そんなら後《あと》にしてくれたまえ。今少し差支《さしつか》えるから」
「はあ。気がつかない事をして失礼しました」
 音のしないように戸を締《し》めた津田はまた自分の机の前に帰った。
 午後になってから彼は二返《にへん》ばかり同じ戸の前に立った。しかし二返共吉川の姿はそこに見えなかった。
「どこかへ行かれたのかい」
 津田は下へ降りたついでに玄関にいる給使《きゅうじ》に訊《き》いた。眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。
「ええ先刻《さっき》御客さまといっしょに御出かけになりました。ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ」
 毎日人の出入《でいり》の番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。津田はだれが伴《つ》れて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにしておいて、また自分の机の前に立ち戻った。そうしてそこで定刻まで例のごとく事務を執《と》った。
 時間になった時、彼はほかの人よりも一足|後《おく》れて大きな建物を出た。彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、また隠袋《ポッケット》から時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためで
前へ 次へ
全373ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング