疑《うたぐ》っていらっしゃるの。本当よ。あたし嘘《うそ》なんか吐《つ》いちゃいないわ。本当よ。本当にあたし幸福なのよ。解ったでしょう」
 こう云って絶対に継子を首肯《うけが》わせた彼女は、後からまた独《ひと》り言《ごと》のように付け足した。
「誰だってそうよ。たとい今その人が幸福でないにしたところで、その人の料簡《りょうけん》一つで、未来は幸福になれるのよ。きっとなれるのよ。きっとなって見せるのよ。ねえ継子さん、そうでしょう」
 お延の腹の中を知らない継子は、この予言をただ漠然《ばくぜん》と自分の身の上に応用して考えなければならなかった。しかしいくら考えてもその意味はほとんど解らなかった。
        七十三
 その時廊下伝いに聞こえた忙がしい足音の主《ぬし》ががらりと室《へや》の入口を開けた。そうして学校から帰った百合子が、遠慮なくつかつか入って来た。彼女は重そうに肩から釣るした袋を取って、自分の机の上に置きながら、ただ一口「ただいま」と云って姉に挨拶《あいさつ》した。
 彼女の机を据《す》えた場所は、ちょうどもとお延の坐っていた右手の隅《すみ》であった。お延が津田へ片づくや否や、すぐその後《あと》へ入る事のできた彼女は、従姉《いとこ》のいなくなったのを、自分にとって大変な好都合《こうつごう》のように喜こんだ。お延はそれを知ってるので、わざと言葉をかけた。
「百合子さん、あたしまたお邪魔に上りましたよ。よくって」
 百合子は「よくいらっしゃいました」とも云わなかった。机の角へ右の足を載せて、少し穴の開《あ》きそうになった黒い靴足袋《くつたび》の親指の先を、手で撫《な》でていたが、足を畳の上へおろすと共に答えた。
「好いわ、来ても。追い出されたんでなければ」
「まあひどい事」と云って笑ったお延は、少し間《ま》をおいてから、また彼女を相手にした。
「百合子さん、もしあたしが津田を追い出されたら、少しは可哀相《かわいそう》だと思って下さるでしょう」
「ええ、そりゃ可哀相だと思って上げてもいいわ」
「そんなら、その時はまたこのお部屋へおいて下すって」
「そうね」
 百合子は少し考える様子をした。
「いいわ、おいて上げても。お姉さまがお嫁に行った後なら」
「いえ継子さんがお嫁にいらっしゃる前よ」
「前に追い出されるの? そいつは少し――まあ我慢してなるべく追い出され 
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