炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》のごとく、継子の前に燃え上った。彼女の言葉は継子にとってついに永久の真理その物になった。一般の世間に向って得意であった彼女は、とくに継子に向って得意でなければならなかった。
お延の見た通りの津田が、すぐ継子に伝えられた。日常接触の機会を自分自身にもっていない継子は、わが眼わが耳の範囲外に食《は》み出《だ》している未知の部分を、すべて彼女から与えられた間接の知識で補なって、容易に津田という理想的な全体を造り上げた。
結婚後半年以上を経過した今のお延の津田に対する考えは変っていた。けれども継子の彼に対する考えは毫《ごう》も変らなかった。彼女は飽《あ》くまでもお延を信じていた。お延も今更前言を取り消すような女ではなかった。どこまでも先見の明によって、天の幸福を享《う》ける事のできた少数の果報者として、継子の前に自分を標榜《ひょうぼう》していた。
過去から持ち越したこういう二人の関係を、余儀なく記憶の舞台に躍《おど》らせて、この事件の前に坐らなければならなくなったお延は、辛《つら》いよりもむしろ快よくなかった。それは皆《み》んなが寄ってたかって、今まで糊塗《こと》して来た自分の弱点を、早く自白しろと間接に責めるように思えたからである。こっちの「我《が》」以上に相手が意地の悪い事をするように見えたからである。
「自分の過失に対しては、自分が苦しみさえすればそれでたくさんだ」
彼女の腹の中には、平生から貯蔵してあるこういう弁解があった。けれどもそれは何事も知らない叔父や叔母や継子に向って叩《たた》きつける事のできないものであった。もし叩きつけるとすれば、彼ら三人を無心に使嗾《しそう》して、自分に当擦《あてこす》りをやらせる天に向ってするよりほかに仕方がなかった。
膳《ぜん》を引かせて、叔母の新らしく淹《い》れて来た茶をがぶがぶ飲み始めた叔父は、お延の心にこんな交《こ》み入《い》った蟠《わだか》まりが蜿蜒《うねく》っていようと思うはずがなかった。造りたての平庭《ひらにわ》を見渡しながら、晴々《せいせい》した顔つきで、叔母と二言三言、自分の考案になった樹《き》や石の配置について批評しあった。
「来年はあの松の横の所へ楓《かえで》を一本植えようと思うんだ。何だかここから見ると、あすこだけ穴が開《あ》いてるようでおかしいからね」
お延
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