のは悪かったかも知れないがね。――何かありそうなもんじゃないか、そんな平凡な観察でなしに、もっとお前の特色を発揮するような、ただ一言《ひとこと》で、ずばりと向うの急所へあたるような……」
「むずかしいのね。――何しろ一度ぐらいじゃ駄目よ」
「しかし一度だけで何か云わなければならない必要があるとしたらどうだい。何か云えるだろう」
「云えないわ」
「云えない? じゃお前の直覚は近頃もう役に立たなくなったんだね」
「ええ、お嫁に行ってから、だんだん直覚が擦《す》り減《へ》らされてしまったの。近頃は直覚じゃなくって鈍覚《どんかく》だけよ」

        六十五

 口先でこんな押問答を長たらしく繰り返していたお延の頭の中には、また別の考えが絶えず並行して流れていた。
 彼女は夫婦和合の適例として、叔父から認められている津田と自分を疑わなかった。けれども初対面の時から津田を好いてくれなかった叔父が、その後彼の好悪《こうお》を改めるはずがないという事もよく承知していた。だから睦《むつま》しそうな津田と自分とを、彼は始終《しじゅう》不思議な眼で、眺めているに違ないと思っていた。それを他の言葉で云い換えると、どうしてお延のような女が、津田を愛し得るのだろうという疑問の裏に、叔父はいつでも、彼自身の先見に対する自信を持ち続けていた。人間を見損《みそく》なったのは、自分でなくて、かえってお延なのだという断定が、時機を待って外部に揺曳《ようえい》するために、彼の心に下層にいつも沈澱《ちんでん》しているらしかった。
「それだのに叔父はなぜ三好に対する自分の評を、こんなに執濃《しつこ》く聴こうとするのだろう」
 お延は解《げ》しかねた。すでに自分の夫を見損なったものとして、暗《あん》に叔父から目指《めざ》されているらしい彼女に、その自覚を差しおいて、おいそれと彼の要求に応ずる勇気はなかった。仕方がないので、彼女はしまいに黙ってしまった。しかし年来遠慮のなさ過ぎる彼女を見慣れて来た叔父から見ると、この際彼女の沈黙は、不思議に近い現象にほかならなかった。彼はお延を措《お》いて叔母の方を向いた。
「この子は嫁に行ってから、少し人間が変って来たようだね。だいぶ臆病になった。それもやっぱり旦那様《だんなさま》の感化かな。不思議なもんだな」
「あなたがあんまり苛《いじ》めるからですよ。さあ云え、さあ
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