まで送って来た彼女を顧《かえり》みた。
「よく気をつけておくれよ。昨夕見たいに寝てしまうと、不用心だからね」
「今夜も遅く御帰りになるんでございますか」
 お延はいつ帰るかまるで考えていなかった。
「あんなに遅くはならないつもりだがね」
 たまさかの夫の留守に、ゆっくり岡本で遊んで来たいような気が、お延の胸のどこかでした。
「なるたけ早く帰って来て上げるよ」
 こう云い捨てて通りへ出た彼女の足は、すぐ約束の方角へ向った。
 岡本の住居《すまい》は藤井の家とほぼ同じ見当《けんとう》にあるので、途中までは例の川沿《かわぞい》の電車を利用する事ができた。終点から一つか二つ手前の停留所で下りたお延は、そこに掛け渡した小さい木の橋を横切って、向う側の通りを少し歩いた。その通りは二三日《にさんち》前の晩、酒場《バー》を出た津田と小林とが、二人の境遇や性格の差違から来る縺《もつ》れ合《あ》った感情を互に抱きながら、朝鮮行きだの、お金さんだのを問題にして歩いた往来であった。それを津田の口から聞かされていなかった彼女は、二人の様子を想像するまでもなく、彼らとは反対の方角に無心で足を運ばせた後で、叔父《おじ》の宅《うち》へ行くには是非共|上《のぼ》らなければならない細長い坂へかかった。すると偶然向うから来た継子に言葉をかけられた。
「昨日《さくじつ》は」
「どこへ行くの」
「お稽古《けいこ》」
 去年女学校を卒業したこの従妹《いとこ》は、余暇《ひま》に任せていろいろなものを習っていた。ピアノだの、茶だの、花だの、水彩画だの、料理だの、何へでも手を出したがるその人の癖を知っているので、お稽古という言葉を聞いた時、お延は、つい笑いたくなった。
「何のお稽古? トーダンス?」
 彼らはこんな楽屋落《がくやおち》の笑談《じょうだん》をいうほど親しい間柄《あいだがら》であった。しかしお延から見れば、自分より余裕のある相手の境遇に対して、多少の皮肉を意味しないとも限らないこの笑談が、肝心《かんじん》の当人には、いっこう諷刺《ふうし》としての音響を伝えずにすむらしかった。
「まさか」
 彼女はただこう云って機嫌《きげん》よく笑った。そうして彼女の笑は、いかに鋭敏なお延でも、無邪気その物だと許さない訳に行かなかった。けれども彼女はついにどこへ何の稽古に行くかをお延に告げなかった。
「冷かすから厭《いや
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