ら聞いた後で、どのくらい津田が自分を待ち受けているかを知るために、今日は見舞に行かなくってもいいかと尋ねて貰った。すると津田がなぜかと云って看護婦に訊《き》き返させた。夫の声も顔も分らないお延は、判断に苦しんで電話口で首を傾けた。こんな場合に、彼は是非来てくれと頼むような男ではなかった。しかし行かないと、機嫌《きげん》を悪くする男であった。それでは行けば喜こぶかというとそうでもなかった。彼はお延に親切の仕損《しぞん》をさせておいて、それが女の義務じゃないかといった風に、取り澄ました顔をしないとも限らなかった。ふとこんな事を考えた彼女は、昨夕《ゆうべ》吉川夫人から受け取ったらしく自分では思っている、夫に対する一種の感情を、つい電話口で洩《も》らしてしまった。
「今日は岡本へ行かなければならないから、そちらへは参りませんって云って下さい」
それで病院の方を切った彼女は、すぐ岡本へかけ易《か》えて、今に行ってもいいかと聞き合せた。そうして最後に呼び出した津田の妹へは、彼の現状を一口《ひとくち》報告的に通じただけで、また宅《うち》へ帰った。
五十九
お時の御給仕で朝食兼帯《あさめしけんたい》の午《ひる》の膳《ぜん》に着くのも、お延にとっては、結婚以来始めての経験であった。津田の不在から起るこの変化が、女王《クイーン》らしい気持を新らしく彼女に与えると共に、毎日の習慣に反して貪《むさ》ぼり得たこの自由が、いつもよりはかえって彼女を囚《とら》えた。身体《からだ》のゆっくりした割合に、心の落ちつけなかった彼女は、お時に向って云った。
「旦那様《だんなさま》がいらっしゃらないと何だか変ね」
「へえ、御淋《おさむ》しゅうございます」
お延はまだ云い足りなかった。
「こんな寝坊をしたのは始めてね」
「ええ、その代りいつでもお早いんだから、たまには朝とお午といっしょでも、宜《よろ》しゅうございましょう」
「旦那様がいらっしゃらないと、すぐあの通りだなんて、思やしなくって」
「誰がでございます」
「お前がさ」
「飛んでもない」
お時のわざとらしい大きな声は、下手な話し相手よりもひどくお延の趣味に応《こた》えた。彼女はすぐ黙ってしまった。
三十分ほど経《た》って、お時の沓脱《くつぬぎ》に揃《そろ》えたよそゆきの下駄《げた》を穿《は》いてまた表へ出る時、お延は玄関
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