人に会わなかったなら、最愛の夫に対して、これほど不愉快な感じを抱《いだ》かずにすんだろうにという気ばかり強くした。
 しまいに彼女はどこかにいる誰かに自分の心を訴えたくなった。昨夜《ゆうべ》書きかけた里へやる手紙の続《つづき》を書こうと思って、筆を執《と》りかけた彼女は、いつまで経《た》っても、夫婦仲よく暮しているから安心してくれという意味よりほかに、自分の思いを巻紙の上に運ぶ事ができなかった。それは彼女が常に両親に対して是非云いたい言葉であった。しかし今夜は、どうしてもそれだけでは物足らない言葉であった。自分の頭を纏《まと》める事に疲れ果た彼女は、とうとう筆を投げ出した。着物もそこへ脱ぎ捨てたまま、彼女はついに床へ入った。長い間眼に映った劇場の光景が、断片的に幾通りもの強い色になって、興奮した彼女の頭をちらちら刺戟《しげき》するので、彼女は焦《じ》らされる人のように、いつまでも眠に落ちる事ができなかった。

        五十八

 彼女は枕の上で一時を聴いた。二時も聴いた。それから何時《なんじ》だか分らない朝の光で眼を覚《さ》ました。雨戸の隙間《すきま》から差し込んで来るその光は、明らかに例《いつ》もより寝過ごした事を彼女に物語っていた。
 彼女はその光で枕元に取り散らされた昨夕《ゆうべ》の衣裳を見た。上着と下着と長襦袢《ながじゅばん》と重なり合って、すぽりと脱ぎ捨てられたまま、畳の上に崩《くず》れているので、そこには上下《うえした》裏表《うらおもて》の、しだらなく一度に入り乱れた色の塊《かたま》りがあるだけであった。その色の塊りの下から、細長く折目の付いた端《はじ》を出した金糸入りの檜扇模様《ひおうぎもよう》の帯は、彼女の手の届く距離まで延びていた。
 彼女はこの乱雑な有様を、いささか呆《あき》れた眼で眺めた。これがかねてから、几帳面《きちょうめん》を女徳《じょとく》の一つと心がけて来た自分の所作《しょさ》かと思うと、少しあさましいような心持にもなった。津田に嫁《とつ》いで以後、かつてこんな不体裁《ふしだら》を夫に見せた覚《おぼえ》のない彼女は、その夫が今自分と同じ室《へや》の中に寝ていないのを見て、ほっと一息した。
 だらしのないのは着物の事ばかりではなかった。もし夫が入院しないで、例《いつ》もの通り宅《うち》にいたならば、たといどんなに夜更《よふか》しを
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