横に付いている下女部屋の戸を開けた。
二畳敷の真中に縫物をひろげて、その上に他愛《たわい》なく突ッ伏していたお時は、急に顔を上げた。そうしてお延を見るや否や、いきなり「はい」という返事を判然《はっきり》して立ち上った。それと共に、針仕事のため、わざと低目にした電灯の笠へ、崩《くず》れかかった束髪の頭をぶつけたので、あらぬ方《かた》へ波をうった電球が、なおのこと彼女を狼狽《ろうばい》させた。
お延は笑いもしなかった。叱る気にもならなかった。こんな場合に自分ならという彼我《ひが》の比較さえ胸に浮かばなかった。今の彼女には寝ぼけたお時でさえ、そこにいてくれるのが頼母《たのも》しかった。
「早く玄関を締《し》めてお寝。潜《くぐ》りの※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》はあたしがかけて来たから」
下女を先へ寝かしたお延は、着物も着換えずにまた火鉢《ひばち》の前へ坐った。彼女は器械的に灰をほじくって消えかかった火種に新らしい炭を継《つ》ぎ足《た》した。そうして家庭としては欠くべからざる要件のごとくに、湯を沸《わ》かした。しかし夜更《よふけ》に鳴る鉄瓶《てつびん》の音に、一人耳を澄ましている彼女の胸に、どこからともなく逼《せま》ってくる孤独の感が、先刻《さっき》帰った時よりもなお劇《はげ》しく募《つの》って来た。それが平生遅い夫の戻りを待ちあぐんで起す淋《さび》しみに比べると、遥《はる》かに程度が違うので、お延は思わず病院に寝ている夫の姿を、懐《なつ》かしそうに心の眼で眺めた。
「やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ」
彼女は自分の頭の中に描き出した夫の姿に向ってこう云った。そうして明日《あした》は何をおいても、まず病院へ見舞に行かなければならないと考えた。しかし次の瞬間には、お延の胸がもうぴたりと夫の胸に食《くっ》ついていなかった。二人の間に何だか挟《はさ》まってしまった。こっちで寄り添おうとすればするほど、中間《ちゅうかん》にあるその邪魔ものが彼女の胸を突ッついた。しかも夫は平気で澄ましていた。半《なか》ば意地になった彼女の方でも、そんなら宜《よろ》しゅうございますといって、夫に背中を向けたくなった。
こういう立場まで来ると、彼女の空想は会釈《えしゃく》なく吉川夫人の上に飛び移らなければならなかった。芝居場で一度考えた通り、もし今夜あの夫
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